『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について43
第四章 陪賓及びエリスについて
忍月は『舞姫』評において、エリスについてはかなりがっかりしたと書いている。
「予は客冬「舞姫」と云へる表題を新聞の広告に見て思へらく是れ引手数多の女俳優(例之ばもしや草紙の雲野通路の如き)ならんと、然るに今本篇に接すれば其所謂舞姫は文盲痴騃にして識見なき志操なき一婦人にてありし。是れ失望の第一なり(失望するは失望者の無理か?)。」
【意訳】『私は去年の冬に「舞姫」と言える表題を新聞の広告に見て思ったものだ。これ引く手数(あま)多(た)の女優(例えば『もしや草紙』の雲(くも)野(の)通(かよひ)路(じ)の如き)ではないかと、しかるに今本篇に接すれば、そのいわゆる舞姫は文盲痴(ち)騃(がい)にして見識なき志なき一婦人ではないか。これ失望の第一なり(失望するは失望者の無理か?)。』
当時、流行っていた低俗な政治小説の『もしや草紙』の「雲野通路」と比べたのである。雲野通路は引く手数多の女優で、幾度か貞操の危機に瀕するが、本人はしっかりした女優で、その都度、機知ないし偶然の幸運で難を逃れている。知らぬは亭主だけである。
『もしや草紙(増補版)』を読んでみたが、雲野通路にそれほどの魅力を感じなかったし、何よりも通俗本特有の語り口に閉口する。それに比べれば、エリスの初々しさの方が何と魅力的なことか。
陪賓及びエリスについては、主人公ほどの議論の深まりはない。この問題に関しては、鷗外は、敢えて議論が深まるのを避けたのかも知れない。