『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について48

   『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
六、『舞姫』とは
 『舞姫』とは一体、何であろうか。すでに述べてきたように、『舞姫』のテーマが「恋愛か功名か」というところにないことはわかって頂けたと思う。
 「まことの我」は、エリート官吏の豊太郎をエリスに出逢わせるための工夫である。故にエリスに出逢った後には、「まことの我」は顕れないのも当然である。したがって、「まことの我」を近代的自我と言い換えてその覚醒と挫折という見解も当てはまらない。
 人には、ある時は真実だと思っていても、後によく考えてみれば偽であることがしばしばある。
 豊太郎にとってエリスはそのような存在だったのだろう。最初はエリスのことを愛していると思い込んだ。しかし、それは彼女の境遇に同情したり、自分が免官・免職になり、かつ母の死がほぼ同時に起こった事で、エリスと恍惚の間に交わってしまい、エリスの処女性を奪う事になった。その責任も感じた事だろう。しかし、一番問題なのは、エリスは豊太郎を心の底から愛していたが、豊太郎はエリスを真から愛していなかったことに尽きる。
 舞姫エリスは、そんな豊太郎に翻弄されたのである。
 そして翻弄した豊太郎は、その責任を自己のものとして完全消化できずに、他者転嫁を図る。確かにエリスを、直接的に精神的に殺したのは相澤である。しかし、その原因を作ったのは豊太郎であるが、ついにそこには至らない。豊太郎の手記が「嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。」で終わっているのは、そのようにして自己を守らなければ生きていけない、豊太郎の心の弱さをよく表している。

七.「舞姫論争」とは
 「舞姫論争」自体は、最初はそれなりの論説を交わしているが、次第に些末なことまで論じ、まるで子どもの喧嘩のような言説を振りかざしているのは、これまで見てきたとおりである。
 にもかかわらず、石橋忍月の名と「舞姫論争」が、いつまでも過去のものとならないのは、「恋愛か功名か」というわかりやすいテーゼと、忍月が指摘している、豊太郎が取るべきなのは断然恋愛であって、功名ではないという倫理的な発想がわかりやすかったからであるとしか、私には思えない。確かに倫理的に考えるなら、豊太郎の態様は読者を満足させ得るものではないだろう。そして、その部分だけが残されていまだに、「舞姫論争」は議論されている。
 もはや、過去の議論となった「舞姫論争」がいまだに取り上げられるのは、もはや止めにしてもらいたいくらいである。
 それにしても、「舞姫論争」は、『舞姫』が読まれ続ける限り、形を変えて続けられていくだろう。『舞姫』には読者の琴線に触れる倫理的問題が内在しているからである。そして、その責めを相澤謙吉に負わせるかのような終わり方をしているが、読者にとっては納得いくものではないだろう。その不条理ともいえる結末が、この物語を支えているのである。おおよそ、書き手にとってもこの結末の不条理こそが、その時代(制度内)を生きるものの受け入れなければならないものであり、受け入れた以上、その恨みは決して消えないのである。          了