『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について45

舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
第六章 「舞姫」のテーマについて

一、恋愛か功名か
 忍月が定立した「恋愛か功名か」というテーゼは、本当は成立していない。豊太郎は真の愛を知らないのである。したがって、「恋愛」がなくなれば「功名」しか残らなくなる。至極簡単な道理であるが、『舞姫』においては仮初めにも「恋愛」らしきものがあり、「功名」を取るのは容易くない。
 何にしても、エリスの存在が大きい。このエリスから離れられることができてこそ、「功名」を取ることができるのである。
 『舞姫』全編はその事に費やされていると言っても過言ではない。

二、豊太郎の履歴の必要性
 「まことの我」を体験した後の豊太郎は、自分がどう生まれ育ってきたのかを確認する必要がある。なぜなら、「まことの我」は、その部分を自らの意志で行ったのではなく、人の言われるように行動し、その結果が藩校にいた時も予備校にいた時も、大学法学部を卒業する時も常にトップの成績だったことにつながる。それから、某省に入り、故郷から母を東京に呼び寄せて、楽しい時を三年ばかり過ごす。その間、官長の覚えめでたく、念願だった洋行の命も下り、ベルリンにやってくる。
 この過去の自分の履歴の部分は、後に「まことの我」によって、すべて自らの意志でしたことではないと否定される(する)。その否定されるべき履歴であるから、豊太郎は確認する必要があったのである。こうした過去を否定することで、「まことの我」は「我」の中で出発したのである。

三、エリスとは
 エリスは物語的には、豊太郎の出世を阻む者として現れる。エリスとの出会いが、免官・免職に追い込まれる事になり、エリスと付き合っていることが、豊太郎の再任官を阻む原因になるのである。
 一方、豊太郎が本当にエリスを愛しているならば、貧しくとも某新聞社のベルリン通信員であり続けられるのであればその生活を大切にすればいいのであるが、豊太郎が捨てがたく思っているのは、「エリスが愛」であり、エリスに愛されていることなのである。「まことの我」が顕れてからもこの関係は変わることがなかった。だから、エリスの妊娠を知った時、本当だったらどうしようなどと考えるのである。
 エリスは一方的に豊太郎を愛する人になり、豊太郎は愛される側に立つ。それが一年と少しの生活の間に恒常化し、豊太郎から真の意味でエリスを愛するという心を奪っていったとも言える。
 それだから、明治二十一年の冬、ホテル・カイゼルホオフで相澤謙吉と会い、相澤からエリスとの情縁を断てと言われた時、躊躇なくエリスと別れると約束ができたのも、真にエリスを愛していなかったからであり、ここにおいては「まことの我」は姿を消し、「いままでの我」が事を仕切る。
 この時から、エリスは豊太郎にとって、ある意味で邪魔者になっていたのである。天方伯に取り入り、その信用を得て帰国することになった時、最大の障壁はエリスだったのである。
 天方伯の帰国の命を承諾した後においては、豊太郎とエリスとをそのまま会わせる事ができない。だから、豊太郎を人事不省にし、その間に諸事情を相澤からエリスに伝えることで、エリスがパラノイアになる。鷗外の論理では、「処女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委托し、存活の資を残して去る心とは、何故に両立すべからざるか」ということになり、豊太郎の子を妊娠しているエリスをベルリンに置き去りにし、その世話をエリスの母に託すということで解決できると考えている。
 ここは読者の考え方次第であろう。豊太郎のこの行為を非難することは、読者ならではの特権なのだから。