そして日曜日になった。エリスは躰を冷やさないように、鉄炉の側(そば)に椅子を引き寄せて座っていた。
豊太郎は朝から机に向かったままだった。どう思っているのだろう。エリスは訊きたかった。何か話してほしかったが、エリスが声を掛けるのも躊躇(ためら)われるくらいに、鉛筆を動かしている。会話のない時間が過ぎていく……。このような日曜日は、初めてのような気がした。
その時、戸をノックして母が入ってきた。そして豊太郎に何か渡している。どうやら手紙のようだった。
豊太郎が訝(いぶか)しげに封を開けると、すぐに吸い寄せられるように読み始めた。そう長い手紙でもなさそうで、一気に読み終えると、目を上げ、何も言わず宙を見据えた。
誰かの訃報でも……、とエリスは思った。
「故郷からの手紙ですの。もしや、悪い知らせでも」
昨年の秋、豊太郎が母の手紙とその母の死を知らせる便りを前に呆然としていたのを思い出していた。
「いや、心配しなくていい。前に話したことがあるから名前ぐらいは知っていると思うが、その相澤が今大臣と一緒にここベルリンに来ている。大臣が私に会いたいと言っているそうだ。それで私にすぐにホテル・カイゼルホオフへ来いと言ってきたんだ」
気分の悪さも失せたかのように、エリスは椅子から立ち上がった。膝掛けがずり落ちていった。
「あなた……」
「何だ」
「大臣……様って」
「天方伯のことだよ。今は、確か内務大臣*25だったと思うが」
「そんなお偉い方があなたにお会いになりたいと言っているの」
「そうだよ」
朝にはキヨオニヒ街の引き窓より光を採り入れている決して明るいとは言えない休憩所に行き、夕べには屋根裏部屋の小さなランプの下、机で一生懸命に原稿を書いていた豊太郎……。その豊太郎に光が差し込んでこようとしている。
「ああ、こうしてはいられないわ」
エリスは部屋の戸を開け、「お母さん」と呼んだ。
庖厨にいた母は振り返った。
「いったい、どうしたんだい」
「この人が、これからお大臣様にお目にかかりに行くと言うの。急いで支度をしなくては……」
「まぁ、それは……」
大臣と聞いて、エリスの母は驚いた。まるで雲の上の人のようだったからだ。
「どうしようかね」
「手伝って……」
エリスは母を部屋に呼び、ベッドの下の箱を一緒に引き出した。ワイシャツをたたんで入れてある箱だった。汚れのない、真っ白なシャツを見つけ出した。
「これがいいわ」
「そうだね」
豊太郎は、心ここにあらずといった感じだった。邪魔にならぬように、隅に突っ立ったまま何事か考えている。
その間にエリスと母は部屋を出て行った。
エリスの母の部屋にしまってある豊太郎の服を取り出すためだった。二人して、大きな行李を開けると、果たして礼服が出てきた。エリスがゲエロックなる昼間に着る礼服を見るのは、昨年豊太郎がエリスの家に引っ越してくる時に一緒にしまった時以来だった。
「これは」とエリスが訊いた時に、「礼装して偉い人たちに謁見する時に着るものだよ。もう着ることもないかもしれない」と豊太郎が言っていたのを思い出す。
「そんなことはなかったわ」
エリスはゲエロックの両肩の部分を持って広げてみた。金色の二列ボタンが鈍く光っていた。ホテルの明るい部屋では、さぞかしそれは晴れがましい色沢を放つだろう。
ネクタイやハンカチも取り出し、エリスは胸にゲエロックを抱いて屋根裏部屋に走るように戻った。エリスの母が「わたしは、ドロシュケ*26を呼んでくるよ」と言ったのも、果たして耳に届いていただろうか。
豊太郎は顔を洗い、髭を整えていたようで、タオルで顎のあたりを拭っていた。
エリスは上着を脱がせると肌着一つになった豊太郎にワイシャツを着せた。ボタンも一つ一つ留めて、ネクタイを結び、襟を立てた。そして、ゲエロックを着せるとそのボタンも留めた。その間、豊太郎はエリスのなすがままだった。
櫛で髪を整えた豊太郎を待ちきれないように、姿見の前に連れていった。
「あなた、とても立派よ。これで見苦しいなんて、誰も言えないわ。ねえ、鏡をご覧になって」
エリスは鏡に映る豊太郎を見た。さぞや、晴れやかな顔をしていると思ったら、軽く身を揺すって立つと、写し出される我が身を見て、何も表情を変えない。不興のようにすら見える。
「どうしてそんなお顔をなさっているの。わたしも……できることなら、一緒に行きたいくらいなのよ」
エリスは豊太郎の後ろを回って反対側に立ち、「でも、このように立派な衣服に改められているあなたを見ると、なんだかいつもの豊太郎様とも見えませんね」
軽くはしゃぐかのような気持ちの中でそう言った瞬間、エリスは鏡の中の豊太郎の姿が、何やらすうっと遠ざかっていくように感じた。その急な不安は、エリスをして言葉にせずにはいられなかった。
「もし、富貴におなりになる日が来るとしても、わたしをお見捨てにはなさらないでくださいね。もし、母の言っているように身籠(みご)もってはいなかったとしても」
エリスは豊太郎の腕を服の上からでも捕まえていたかった。
「なに、富貴だって」豊太郎は笑った。
「そんな望みはとっくの昔に捨てたよ。大臣に会いたいわけじゃない」
鏡から向き直った豊太郎はエリスの目を見て、「もう何年も別れて久しい友がここに来ているんだ。彼に会いに行くだけさ」と言った。その黒い瞳は、たとえ一瞬でもエリスの不安を吸い込んでいくようだった。
「馬車が来たよ」
母の声よりも前に、窓下に来た辻馬車の車輪の軋(きし)む音がした。窓から覗けば、すぐ下に一等ドロシュケが見える。母の心遣いにエリスは感謝した。
「では、行くよ」
豊太郎は手袋をはめ、手を通さないまま外套で背を覆い、帽子を取った。部屋を出て階段の前まで来ると、「ここまででいい」と言って豊太郎はエリスにキスをした。エリスの身を気遣ったのだろう。
エリスは階段を下りていく豊太郎が見えなくなると、屋根裏部屋に戻り、窓を開けドロシュケを見下ろした。
豊太郎が戸口から出てドロシュケに向かう。乗り込む時に、こちらを見たが、その表情まではわからない。馬車が走り出し、通りを出て見えなくなるまで、強い北風に髪を靡(なび)かせながらエリスは豊太郎を見送った。
*25 内務大臣 天方伯は、山縣有朋(一八三八年六月十四日―一九二二年二月一日)がモデルだとされています。山縣有朋は明治二十一年十二月二日より欧州視察に出ます。この時、山縣有朋は内務大臣でした。この欧州視察には、相澤謙吉のモデルとされる賀古鶴所(かこつるど)(一八五五年二月十八日―一九三一年一月一日)も同行しています。
*26 ドロシュケ 小堀桂一郎氏の「『舞姫』論」(『慶應義塾大学経済学部 日吉論文集』昭和四十一年十二月、長谷川泉編『森鷗外『舞姫』作品論集』所収、クレス出版、二〇〇〇年十月二十五日発行)には、ドロシュケについて次のような注記が挿入されています。
ドロシュケはいわゆるランドールと呼ぶ二輪馬車で冬は勿論幌をつける。一等と
二等の区別があった。二等は車体にじかに白字の番号を書き込んであったが、一等
ドロシュケは昇降口に白い札を打ちつけそれに黒字で番号が入っていた。馭者は二
等のは襟に黄色のモールをつけ、一等のは銀モールを飾った。料金は走行時間に応
じての協定値段であった。一等は二等の五割高である、一等ドロシュケと二等ドロ
シュケはまた客待ちの溜り場が区別されている。エリスの母は一等のスタンドに出
向いて呼んできたわけである(以下、略)。