小説『エリスの物語』‐16

 そして日曜日になった。エリスは躰を冷やさないように、鉄炉の側(そば)に椅子を引き寄せて座っていた。

 豊太郎は朝から机に向かったままだった。どう思っているのだろう。エリスは訊きたかった。何か話してほしかったが、エリスが声を掛けるのも躊躇(ためら)われるくらいに、鉛筆を動かしている。会話のない時間が過ぎていく……。このような日曜日は、初めてのような気がした。

 その時、戸をノックして母が入ってきた。そして豊太郎に何か渡している。どうやら手紙のようだった。

 豊太郎が訝(いぶか)しげに封を開けると、すぐに吸い寄せられるように読み始めた。そう長い手紙でもなさそうで、一気に読み終えると、目を上げ、何も言わず宙を見据えた。

 誰かの訃報でも……、とエリスは思った。

「故郷からの手紙ですの。もしや、悪い知らせでも」

 昨年の秋、豊太郎が母の手紙とその母の死を知らせる便りを前に呆然としていたのを思い出していた。

「いや、心配しなくていい。前に話したことがあるから名前ぐらいは知っていると思うが、その相澤が今大臣と一緒にここベルリンに来ている。大臣が私に会いたいと言っているそうだ。それで私にすぐにホテル・カイゼルホオフへ来いと言ってきたんだ」

 気分の悪さも失せたかのように、エリスは椅子から立ち上がった。膝掛けがずり落ちていった。

「あなた……」

「何だ」

「大臣……様って」

「天方伯のことだよ。今は、確か内務大臣*25だったと思うが」

「そんなお偉い方があなたにお会いになりたいと言っているの」

「そうだよ」

 朝にはキヨオニヒ街の引き窓より光を採り入れている決して明るいとは言えない休憩所に行き、夕べには屋根裏部屋の小さなランプの下、机で一生懸命に原稿を書いていた豊太郎……。その豊太郎に光が差し込んでこようとしている。

「ああ、こうしてはいられないわ」

 エリスは部屋の戸を開け、「お母さん」と呼んだ。

 庖厨にいた母は振り返った。

「いったい、どうしたんだい」

「この人が、これからお大臣様にお目にかかりに行くと言うの。急いで支度をしなくては……」

「まぁ、それは……」

 大臣と聞いて、エリスの母は驚いた。まるで雲の上の人のようだったからだ。

「どうしようかね」

「手伝って……」

 エリスは母を部屋に呼び、ベッドの下の箱を一緒に引き出した。ワイシャツをたたんで入れてある箱だった。汚れのない、真っ白なシャツを見つけ出した。

「これがいいわ」

「そうだね」

 豊太郎は、心ここにあらずといった感じだった。邪魔にならぬように、隅に突っ立ったまま何事か考えている。

 その間にエリスと母は部屋を出て行った。

 エリスの母の部屋にしまってある豊太郎の服を取り出すためだった。二人して、大きな行李を開けると、果たして礼服が出てきた。エリスがゲエロックなる昼間に着る礼服を見るのは、昨年豊太郎がエリスの家に引っ越してくる時に一緒にしまった時以来だった。

「これは」とエリスが訊いた時に、「礼装して偉い人たちに謁見する時に着るものだよ。もう着ることもないかもしれない」と豊太郎が言っていたのを思い出す。

「そんなことはなかったわ」

 エリスはゲエロックの両肩の部分を持って広げてみた。金色の二列ボタンが鈍く光っていた。ホテルの明るい部屋では、さぞかしそれは晴れがましい色沢を放つだろう。

 ネクタイやハンカチも取り出し、エリスは胸にゲエロックを抱いて屋根裏部屋に走るように戻った。エリスの母が「わたしは、ドロシュケ*26を呼んでくるよ」と言ったのも、果たして耳に届いていただろうか。

 豊太郎は顔を洗い、髭を整えていたようで、タオルで顎のあたりを拭っていた。

 エリスは上着を脱がせると肌着一つになった豊太郎にワイシャツを着せた。ボタンも一つ一つ留めて、ネクタイを結び、襟を立てた。そして、ゲエロックを着せるとそのボタンも留めた。その間、豊太郎はエリスのなすがままだった。

 櫛で髪を整えた豊太郎を待ちきれないように、姿見の前に連れていった。

「あなた、とても立派よ。これで見苦しいなんて、誰も言えないわ。ねえ、鏡をご覧になって」

 エリスは鏡に映る豊太郎を見た。さぞや、晴れやかな顔をしていると思ったら、軽く身を揺すって立つと、写し出される我が身を見て、何も表情を変えない。不興のようにすら見える。

「どうしてそんなお顔をなさっているの。わたしも……できることなら、一緒に行きたいくらいなのよ」

 エリスは豊太郎の後ろを回って反対側に立ち、「でも、このように立派な衣服に改められているあなたを見ると、なんだかいつもの豊太郎様とも見えませんね」

 軽くはしゃぐかのような気持ちの中でそう言った瞬間、エリスは鏡の中の豊太郎の姿が、何やらすうっと遠ざかっていくように感じた。その急な不安は、エリスをして言葉にせずにはいられなかった。

「もし、富貴におなりになる日が来るとしても、わたしをお見捨てにはなさらないでくださいね。もし、母の言っているように身籠(みご)もってはいなかったとしても」

 エリスは豊太郎の腕を服の上からでも捕まえていたかった。

「なに、富貴だって」豊太郎は笑った。

「そんな望みはとっくの昔に捨てたよ。大臣に会いたいわけじゃない」

 鏡から向き直った豊太郎はエリスの目を見て、「もう何年も別れて久しい友がここに来ているんだ。彼に会いに行くだけさ」と言った。その黒い瞳は、たとえ一瞬でもエリスの不安を吸い込んでいくようだった。

「馬車が来たよ」

 母の声よりも前に、窓下に来た辻馬車の車輪の軋(きし)む音がした。窓から覗けば、すぐ下に一等ドロシュケが見える。母の心遣いにエリスは感謝した。

「では、行くよ」

 豊太郎は手袋をはめ、手を通さないまま外套で背を覆い、帽子を取った。部屋を出て階段の前まで来ると、「ここまででいい」と言って豊太郎はエリスにキスをした。エリスの身を気遣ったのだろう。

 エリスは階段を下りていく豊太郎が見えなくなると、屋根裏部屋に戻り、窓を開けドロシュケを見下ろした。

 豊太郎が戸口から出てドロシュケに向かう。乗り込む時に、こちらを見たが、その表情まではわからない。馬車が走り出し、通りを出て見えなくなるまで、強い北風に髪を靡(なび)かせながらエリスは豊太郎を見送った。

 

*25 内務大臣 天方伯は、山縣有朋(一八三八年六月十四日―一九二二年二月一日)がモデルだとされています。山縣有朋は明治二十一年十二月二日より欧州視察に出ます。この時、山縣有朋は内務大臣でした。この欧州視察には、相澤謙吉のモデルとされる賀古鶴所(かこつるど)(一八五五年二月十八日―一九三一年一月一日)も同行しています。

*26 ドロシュケ 小堀桂一郎氏の「『舞姫』論」(『慶應義塾大学経済学部 日吉論文集』昭和四十一年十二月、長谷川泉編『森鷗外『舞姫』作品論集』所収、クレス出版、二〇〇〇年十月二十五日発行)には、ドロシュケについて次のような注記が挿入されています。

   ドロシュケはいわゆるランドールと呼ぶ二輪馬車で冬は勿論幌をつける。一等と

  二等の区別があった。二等は車体にじかに白字の番号を書き込んであったが、一等

  ドロシュケは昇降口に白い札を打ちつけそれに黒字で番号が入っていた。馭者は二

  等のは襟に黄色のモールをつけ、一等のは銀モールを飾った。料金は走行時間に応

  じての協定値段であった。一等は二等の五割高である、一等ドロシュケと二等ドロ

  シュケはまた客待ちの溜り場が区別されている。エリスの母は一等のスタンドに出

  向いて呼んできたわけである(以下、略)。

小説『エリスの物語』‐15

「エリス」

 豊太郎……。

 エリスは目を開けた。一瞬、どこだろうと思った。さっきまで、自分は舞台に立っていたはずだった。でも、斜めに走る天井の梁が見える。屋根裏部屋にいる。そして、目の前には豊太郎が、その後ろに母も……。

「気付いたのか、良かった」

「どうしたの」

「舞台で倒れたんだ」

 そうだった。エリスは朧気(おぼろげ)な記憶を(つむ)いだ。誰かの声がして、また誰かに支えられて帰り着いたのだった。そして、ベッドに横たわったとたんに意識を失ってしまった。

 起きようとした。

「そのまま」

 豊太郎の手がエリスを押さえた。

「休んでいた方がいい」

「何か悪い病気なの」

 エリスは豊太郎に視線を向けたが、わからないようだった。

「病気なんかじゃないよ、多分……」

 エリスの母はそう言った。

「えっ」

「しっかり休めば、明日には起きられるよ。病気なんかじゃないから」

 それを聞いてエリスはハッとした。

 そうなの……。

 エリスは毛布を引き上げ、そっと手をお腹に持っていった。

 エリスは翌日も、そのまた翌日も舞台を休んだ。

 

小説『エリスの物語』‐14

 今日も豊太郎は机に向かって、何やら書き連ねている。黙々と鉛筆を走らせる、その姿を見ているエリスは、それだけで満たされていた。いや、満たされていると思った。でも、何もしないでいると、手を伸ばしたくなる、かまってもらいたくなる、邪魔をしたくなる、意地悪をしたくなる……。

 エリスは豊太郎を困らせたくはなかった。だから、そっと椅子を机の側(そば)に引き寄せて、縫い物をした。その中に自分の手を結び、豊太郎との静かな時間を縫い込んでいくのだった。

 でも時は、次第にその動きを速くする。エリスが生まれた時からプロシヤ国王であり、初代ドイツ皇帝でもあったヴィルヘルム一世が三月九日に崩御し、自由主義者であり平和主義者でもあったフレデリック三世が即位するも、六月十五日には在位三ヶ月ほどで崩御してしまうと、何か国中がざわめき出しているかのようにエリスには感じられた。楽屋内でも不吉な噂話をエリスは耳にした。それまでエリスを贔屓(ひいき)にしていた客の足も遠のいた。それと代わるように新しい客が現れても、エリスにその気がないので、別の踊子の贔屓になった。エリスの場中第二位の地位には翳(かげ)りが見えていたが、そのことにエリスは気付いていたであろうか。

 豊太郎といえば、前にも増して忙しげだった。レッスンの帰りにキヨオニヒ街の休憩所に立ち寄っても、豊太郎の目にはエリスが入らぬようだった。夜も遅くまで書きものをしていた。ベッドの傍らを空けたままエリスが眠ることも少なくなかった。

 

 そして、八月も半ばを過ぎた。その日曜日も朝食をすませると、豊太郎はすぐに机に座った。コーヒーを飲んでいる時でも、頭の中には文字が走っていたのだろう。鉛筆を取ろうとする豊太郎の肩にエリスは手を置いた。その前にエリスは「ねぇ」と言ってはいたが、豊太郎の耳には入らなかっただろう。怪訝(けげん)な顔をして、振り向いた豊太郎にエリスは顔を寄せて、「今日よ」と言った。

「なに?」

 豊太郎は、エリスが本当に何を言っているのかわからなかった。

「一年前の今日よ」

 一瞬、間があった。豊太郎は鉛筆を置くと、「そうか」と言った。「そうよ」とエリスも返した。

「一年か」

「ええ」

 豊太郎はエリスの方を向いた。

「もう一年か」

「まだ一年よ」

 豊太郎が椅子から立つと、エリスはその両腕の中に入っていった。

 やがて、豊太郎と肌を合わせたエリスは、久しぶりに抱き締められた気がした。

 

 十一月になった。

 エリスは舞台の袖にいた。首座の踊りが終わり、次はエリスたちの出番だった。

 踏み出そうとした、その時、一瞬立ちくらみがした。

「どうしたの」

 側(そば)にいた踊子が声をかけた。

「何でもないわ」

 このところ、あまり食が進まない。それどころか、食べても吐いてしまう。そのためだわ。

 エリスは身を起こした。今も屋根裏部屋では、豊太郎は原稿を書くのに一生懸命だろう。わたしも……。

 目映(まばゆ)い光の中で、エリスは踊った。

 手を真っ直ぐに伸ばし、足を振り上げ、躰をくるっと回した。

 目の奥がチカチカとする。

 また一歩踏み出そうとしたその時、急に光が遠のいていった。

 何が起こったのだろう。躰から力が引いていった。

 

小説『エリスの物語』‐13

 パンをちぎって口に入れる豊太郎を、エリスは見ていた。

 今、かつて父のいた、その席に豊太郎が座っている。朝の食卓がこのようになるなんて思いもしなかった。

 カップを口元に運び、コーヒーを啜る。何げない朝の一時(ひととき)なのに、全く以前とは異なっていた。

 秋も深まるその日も、午前中にレッスンのあるいつもの日と同じようにエリスは豊太郎と連れだって家を出た。道々に話すことの、たわいのないことでもエリスは笑った。

 レッスンのない日に豊太郎を送り出す日より、ずっとエリスには楽しかった。

 朝の街頭を豊太郎と一緒に歩く。そして、午後一時になれば、豊太郎がいる休憩所に向かい、また一緒になって帰る。これがどれほど嬉しいことか。

 踊子仲間には冷やかされるが、その少しばかり嫉妬の入ったからかいの言葉もエリスには気にならなかった。座頭シヤウムベルヒの態度は、このところ何か苛立たしげだったが、もうそんなことどうでもいい。

 奥に細長い休憩所に入る時、いつもエリスは少し手前で石卓(いしづくえ)の上でペンを走らせる豊太郎を見る。夢中になって何か書き物をしている豊太郎を見ているのが好きだった。そして、そのうちに彼が顔を上げる。その視線が自分に向けられ絡み合う、その一瞬がエリスには何にも代え難かった。もし、この時、舞台の上で王子を迎える姫のように舞を踊りながら、彼の腕に抱かれるのなら、もうそれだけでいいと思った。

 枯れ葉の舞う季節を豊太郎と散歩した。日ごとに空気は冷たくなってきている。これが過ぎれば、もう冬だった。豊太郎と迎える初めての冬。

 厳しい寒さが壁さえ遮らず、あるいは綿を含んだ服でさえ徹(とお)すが、ベッドの中ではこの屋根裏部屋の小さな鉄炉*23よりも、豊太郎は時には温かく、時には熱い。

 直に触れ合う肌と肌。

「どうしたんだい」

 うっふふ。エリスは、微笑んだ。半ば涙に濡れた目を豊太郎に向けると、「うれしいっ」と言って、顔を彼の胸に伏せた。

 このような冬はエリスにとっては初めてだったのだ。

 いつも一人で、壁を伝い窓から忍び寄る寒さに身を屈めて、長い永い夜を過ごしたのだった。そして、月の光に微かに照らされる窓を見て、遠い春を待っていたのだった。

 でも、今は違う。こうして触れる手の先に豊太郎の胸がある。顔がある。その肩に頭を預けて、いつしかエリスは微睡(まどろ)み、眠りに落ちていく。

 

  その年の大晦日、もうすぐ新年を迎える。

 豊太郎の懐中時計の秒針が十二に向かう。

 その時、「Prosit Neujahr(プロジット ノイヤール)!」*24という乾杯の声が、どこからともなく聞こえてきた。

「新年、おめでとう」

 三人はコップを重ねて、新しい年を祝した。豊太郎には久しぶりの酒だった。

 コップを手にする時、豊太郎が「日本には喪に服するという習慣があるのだが……」と呟くのをエリスは聞いた。「えっ」と顔を向けると、「しかし、それも日本でのことだ」と、豊太郎はコップを掴んだのだった。

 しばらくして、エリスの母が自室に入ると、エリスは豊太郎に抱き付き、そっと口づけした。

 去年は窶(やつ)れた父がベッドに横たわったまま、エリスは自分の部屋で新年を迎えたのだった。その時、新年を祝う声はどこか遠くのことのようだった。次に迎える新年が今のようであるとは、思いもよらぬことだった。

 

 劇場から帰り、見上げれば四階の屋根裏部屋に明かりが灯っている。豊太郎はまだ記事を書き連ねている。いや、自分を待ってくれている。

 エリスは大戸を開き、階段を駆け上った。

 戸の前で息を整え、中に入ると、庖厨を通り、そのまま屋根裏部屋に向かった。

「お帰り」

 豊太郎は鉛筆を止め、エリスを迎える。

「ただいま」

 エリスはコートを脱ぎ、スタンドに掛けると、豊太郎に抱き締めてもらった。この瞬間、劇場での疲れや楽屋での嫌な思いが吹き飛んだ。

 

*23 鉄炉 暖房設備として『舞姫』には、「竈」を除いて、鐵爐(鉄炉)」「陶爐(陶炉)」「カミン」の三種類が出てきます。「陶爐」には「大いなる」という修飾語がついているので、大きな陶製の暖炉のことでしょう。「カミン」は壁に備え付けられた暖炉のことです。それらに対して「鐵爐」には「小(ちいさ)き」という修飾語がついています。最初から備え付けられていたものではないと思われます。鉄炉は鉄製のストーブのようなものでしょう。「鐵爐」「陶爐」「カミン」と並べると、暖房器具が順に大きく、あるいは立派になっていくような……。また、これらの前に出てくる「竈」は、そもそも暖房専用の設備器具というわけでもありませんし。

*24 Prosit Neujahr! プロジット ノイヤール。「新年おめでとう」の意で、一月一日午前零時を過ぎた時に乾杯する際に使います。森鷗外の「獨逸日記」(『鷗外全集 第三十五巻』所収、岩波書店、昭和五十年一月二十二日発行)にも記されています。例えば、明治十八年一月一日の日記には、次のように記されています。

   明治十八年一月一日。こゝの習にては、この日の午前零時に元旦をいはふ。われは此時をば、水晶宮Krystall‐­palastの舞踏席にて迎へぬ。おほよそ一堂に集へるもの、知るも知らぬも、「プロジツト、ノイヤアル」Prosit Neujahr!と呼び、手を握りあふことなり。

小説『エリスの物語』‐12

 劇場から帰ったエリスは、疲れるのも厭(いと)わず、部屋の掃除をした。自分の下着や服はベッドの奥にしまった。

 窓辺に、何度も位置を変えてみては、あるいは椅子を引き寄せて座ってみては、書を読みペンを走らせる机を置き、その右手の壁は、僅かにしろ豊太郎の書棚を置く空間を取るために空けた。

 ひとりではない。誰かと一緒に暮らす。今まで思ってもみなかったことが、現実のものとなりつつあるのを、エリスは部屋を整理しながら、じわじわと実感していった。その一瞬一瞬が、いとおしく、とても楽しい。

「どうかしら」

 時間はすぐに過ぎゆく。いつの間にか、もう夜は深かった。

「まあまあね」

 うん! と、ひとり頷くと、エリスはランプを消した。

 敢えてベッドの端に身を横たえ、腕を伸ばした。二の腕に頭を預けながら、その指先をシーツに絡めている。

 

 馭者ぎょしゃが行李を肩に持ち、「何階へ持って行くんだい」と尋ねるので、エリスは「四階までだけれど、お願い」と言った。豊太郎は、鞄と縄掛けしてまとめた書籍を持って、階段を上がっていった。エリスは、衣類の入った比較的軽い行李を持った。

 馭者が三度往復して、ようやく荷物はエリスの部屋に全部運ばれた。

 豊太郎が馭者に銀貨を渡しているのを、エリスは見た。

 こうしてみると、行李や鞄や縄で括られた書籍で部屋は、たちまちにいっぱいだった。

 しかし、先に運んできておいた棚に書物を詰め、豊太郎がふだん着ない服は、行李にしまったまま母の部屋に置いてもらうと、片側の壁はさすがに本で埋められはしたものの、空いた行李や鞄を隅に片付けると、それほど窮屈さは感じなかった。

「これでいいわね」

「ああ」

 豊太郎も満足そうだった。窓辺の机の椅子を引いて座ったので、エリスは「コーヒーでも入れてくるわね」と言って部屋を出た。

 庖厨には母がいた。お湯を沸かしていた。「一息入れるんだろう」と言った。

「ええ」

「どうなんだい」

「えっ」

「気に入ったようかい」

「大丈夫。前にいた部屋に比べれば、それは狭いけれど……。うん、慣れるわ」

「そうかい」

 エリスはカップとポットに入れたコーヒーを運んだ。

 エリスも傍らの椅子に座ると、コーヒーを豊太郎の前のカップに注いだ。もう、いい匂いが漂う。そういえば、この部屋でコーヒーを飲むのは初めてだった。いつもは庖厨の食卓だった。

 本棚に並んでいる書物を見ると、やはり圧迫される感じはするものの、エリスは以前とはまるで違う、書斎兼用になった部屋に、計り知れない文化というものの香りを、コーヒーを啜りながら嗅いだ。自分の見知らぬ世界が、この部屋に訪れたのだ。今までまるで師のように見上げていた豊太郎と一緒に暮らすこととなった部屋に、圧倒的に漂う教養の威厳は、エリスを酔わせ、うっとりとさせた。

 そんなエリスを見て、豊太郎は「疲れたの」と訊いたが、エリスは「いいえ」と言って微笑んだ。

 

「あなた、変わったわね」

 化粧台の隣に座った女が、そう声をかけた。

「えっ」

「誰かと暮らし始めたんでしょう」

「そんな」

「どうかしら。わたし、こういうことには鋭いのよ」

 エリスは何も言えなかった。女は、ふふふ、と笑いながら化粧を落とした。

「手を止めさせて悪かったわね。早くしないと……。誰かが家で待っているんでしょ」

 エリスがいそいそと手にした綿を頰に当て直すと、女は一層面白そうに笑った。

 拭っているのに、まるで紅を新たに塗ったように、エリスの頰は赤く染まっていった。

小説『エリスの物語』‐11

  その夜、エリスはベッドに耳を付けて横たわった。豊太郎の心臓の音が今でもはっきりと聞こえる。

 わたしは豊太郎と、肌と肌とを合わせたのだった。こうして夜のベッドにもその鼓動は耳の底に残っている。いつか、彼の懐中時計を耳元に置き、眠りについた時のことを思った。あの時、エリスはすべてを豊太郎に託していたことを思った。

 夕方の母とのやり取りなどどうでも良かった。

 豊太郎と一緒に暮らしたいと言い出した時、最初、母は、「何をお言いだい」と全く相手にしなかった。それでもエリスが「どうしても」と続けた時、娘の顔を見た。その時、自分に対する幼さの記憶の向こうに、別の相を持つ女の顔を見たのかもしれない。「どうしょうもない子だね」と言った後、少し考え込んだ。豊太郎と一緒に暮らすということになれば、今の生計が少しは楽になるかもしれないとでも考えたのだろうか。「好きにおし」と言った後、母は続けて何か言おうとしていた。何を言おうとしていたのだろう。でも、エリスにはそんなことどうでも良かった。

 これで、わたしはあの人の手助けが少しでもできるんだわ。

 そう思った時、すぐに、いいえ……と気持ちが続いていくことに気付いた。一緒に暮らせる……。

 狂おしい時間が思い出された。それは激しい嵐のようだった。

 何度も何度もその一瞬を思い浮かべた。

 その微かな苦痛と甘美な思いは、深く深く沈潜していった。

 やがて、エリスは眠りに落ちた。

 

 次の日もその次の日も、エリスは豊太郎の下宿先を訪ねたが、彼は不在だった。会えなかったことは残念であったし、ざわめく気持ちも拭(ぬぐ)えなかったが、この状況を何とかしようとしているんだわ、きっと、とエリスは思った。いや、そう思おうとしていた。

 その翌々日、午前中のレッスンを終えた後に訪れると、豊太郎は部屋にいた。三日前見た時よりは元気そうだった。

「公使館に行ってきた。この地に留まることにした。そう伝えてきた」

「本当」

「ああ」

 エリスは、わあっと豊太郎に飛び付いた。胸につかえていたものがすとんと落ちていくような気がした。

「君は知らないだろうが、友人の相澤謙吉が、私をある新聞社のベルリン通信員としてくれたんだ。一昨日の午前中にその電報を受け取り、すぐに確認の電信を送ったのだが、今朝連絡が取れたので、その旨を公使に伝えてきた」

「そう」

「新聞社の報酬なんて高が知れているから、十分ではないにしても、贅沢をしなければ何とかなる。もっと安い下宿先に引っ越して、昼食もそこそこの店に変えれば……」

 まだ言い続けようとしている豊太郎にエリスは口づけをして遮った。

「わたしの家に来て。一緒に暮らせばいいわ。母も承知しているの」

 そう言うと、エリスはまた唇を重ねた。

 

 一つ歯車が動き出した。

 エリスにとって、引っ越しの手伝いはとても楽しかった。見知らぬ本がたくさんあり、多くは処分したとはいうものの残されたものを豊太郎が本棚から取り出しては手渡すのを鞄や行李*22に入れていく度に、それが自分の部屋に置かれるのだと思うと心が弾んだ。

「今日はここまでにするか」

「ええ」

 夜の舞台が近づくのも気付かないエリスだった。

「また明日ね」

 豊太郎に手を振って部屋を出た。そして、そのとたん、走り出すかのように、エリスは劇場に向かった。

 

*22 行李 竹や柳などで作られた、衣類・食器などを入れて運んだり保存したりするのに用いられる箱状の道具。

小説『エリスの物語』‐10

 ある日のこと、二、三日芝居にも来ていない豊太郎の元をエリスは訪れた。

 呼び鈴を鳴らしても返事はなく、それでも思い切って取っ手を掴んでドアを開けたら、すうっと開く。

 部屋に入ると、何か乱雑な印象がエリスを襲った。テーブルには開かれた手紙がそのままになっていて、上着は無造作に椅子に掛けられていた。髭も整えた様子もなく、髪はバサバサだった。何より、よれたワイシャツを着てベッドに腰掛けている豊太郎を見るのは、初めてだった。

「どうされました」

 エリスは走り寄った。

 豊太郎は一通の手紙を握り締め、静かに泣いていた。

 訊けば、その手紙は豊太郎の母からのものであり、テーブルに置かれたもう一通は親戚からの、その母の死を知らせるものだと言う。

「この母の手紙を、いったい何度読み返したことだろう。*20そんな何にもまして慕っていた母は、もうこの世にはいない」

 豊太郎の脳裏には、母との思い出が駆け巡っていたのだろう。

 悲しみに打ちひしがれている豊太郎を見ているうちに、エリスには数ヶ月前の父の死が蘇ってきた。

 エリスは豊太郎の足元に崩れるように座ると、その膝に両手を乗せ頭を預けた。

 手紙を握り締め震える豊太郎の悲しみが、その膝から伝わってくる。

 知らず識らずのうちにエリスも泣いていた。

 どれほどの時が経っただろう。

「エリス」

 豊太郎の声がした。

「聞いてほしい」

 弱々しくはあったが改まった声色だった。

「はい」

 面を上げて返事をしたエリスに、豊太郎はやや自嘲気味に免官になったということを伝えた。即時に日本に帰るなら旅費を支給するが、このまま居続けると言うのなら国からの援助はもはやないと思え、というものだった。*21

 その時、エリスの心を過(よ)ぎったのは、豊太郎が帰国してしまうかもしれないということだった。

 そんなこと……。堪えられなかった。血の気が引いていくのがわかった。

 ショックだった。何ということだろう。

「豊太郎様」エリスは何げなく自分に伸びてくる豊太郎の手にしがみついた。

 父を喪ってからのエリスの心に一つの光を射し与えてくれたのは豊太郎だった。それがどれほどエリスにとってかけがえのないことだったか。豊太郎と過ごしたこの数ヶ月の日々が鮮やかに蘇ってくる。豊太郎と一緒にいる時はもちろんのこと、そうでない時も豊太郎を思わない時はなかった。

 愛している、わたしはこの人を愛している。離れ離れになるなんてできない。絶対、できない。

 今、悲嘆の底に沈む豊太郎をかき抱(いだ)きながら、恍惚の嵐の中、自分がこの人を繋(つな)ぎ止めておくのだと誓った。

 一時(いっとき)が過ぎた。身繕いをしたエリスは、豊太郎に向き合って「豊太郎様。あなたが免官になったことは、我が母にはお隠しになってください」と言っていた。母が豊太郎の学資を失ったことを知れば、彼を疎んずることは明らかだったからだ。

「ああ」どこか虚ろな豊太郎の声だった。

 エリスは部屋を出た。

 扉が閉まった。

 迷っている暇はない。わたしが何とかするのだ。いや、今わたしにできることをするのだ。

 エリスは、心の内に一つの強い思いを抱(いだ)きながら、薄暗き廊下を歩き、階段を下り、表へと出た。

 

*20 この母の手紙を、いったい何度読み返したことだろう 『舞姫』原文中に「余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、淚の迫り來て筆の運を妨ぐればなり」という一文があります。これは、セイゴンの港に停泊中の船上で、過去を振り返りながら綴った手記の一部ですが、「母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず」の「ここ」とは、手記を書き記している冊子(ノート)のことであり、「反覆するに堪へず」と書かれていることから、「母の書中の言を(その手紙を見ずに)こゝに」書こうと思えば書けたのでしょう。それは何度も何度も読んで記憶していたからです。ただ、「淚の迫り來て筆の運を妨」げるので書けないと記しているのです。ここでの豊太郎の言葉は、そこに典拠したものです。

*21 原文には「余は彼が身の事に關りしを包み隠しぬれど」と書かれています。豊太郎がエリスに隠したのは、エリスが豊太郎の免官に関わっているということだけです。エリスは豊太郎が公務(官命)によってベルリンに来ていることは知っているでしょうから、免官になればどうなるのか(例えば、帰国しなければならないかもしれないなど)の情報を豊太郎から聞かされた可能性は高いと思います。