『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について46

   『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
四、「人知らぬ恨」と「まことの我」と「一点の彼を憎む心」とは同じもの
 冒頭の独白に「人知らぬ恨」が出てくる。その正体がわからなくて、豊太郎は悩まされている。しかし、その正体を知ろうとして、手記を書き始めるのである。
 やがてベルリンの自由の大学の風に吹かれて、奥底に潜んでいた(ということは今までも存在していたということである)「まことの我」が顕れ、「いままでの我」は「たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりし」だったと言い、その結果が、「いままでの我」ならぬ我を責めるようになったと語る。
 しかし、相澤に会った時も天方伯にロシア行きを告げられた時も、そして最後に天方伯から帰国しないか、と言われそれを承諾した際も、「まことの我」は前面には出なかった。
 天方伯に帰国を承諾した時点で、「まことの我」は役割を終えていたのである。
 しかし、エリスがいる。エリスに対しては豊太郎は顔向けができない。自分の事を罪人だとも言って、冬のベルリンを彷徨する。結果的にそれが豊太郎を人事不省に陥らせる。
 その間に、相澤が豊太郎のもとを訪れ、全てを知る。その上で、エリスに本当の事を告げる。相澤から聞かされた真実に、豊太郎を罵りながら、エリスは倒れる。そして、医に見せたところ「パラノイア」という不治の精神病に罹っているという。
 人事不省から回復した豊太郎は、エリスを精神的に殺したのは、相澤であると思うようになる。
 ベルリンを出発する時、すでに「人知らぬ恨」が生じているが、この正体は「まことの我」であろうと思う。なぜならば、その後「まことの我」は顕れないからである。豊太郎が生まれた時から、ベルリンに留学し、三年ばかり過ぎるまでの、全ての履歴の過程を否定した精神は、どこに消えたのだろう。「まことの我」にかわり「いままでの我」が「我」を取り仕切る。行き場を失った「まことの我」はまた奥底に潜むのであろうか。そうではあるまい。一度、表面化した「まことの我」は実体をもった別のものに変化したのである。それが「人知らぬ恨」である。そして、手記においては、エリスを排除した者として相澤を憎むことになる。この「一点の彼を憎む心」と「人知らぬ恨」は同じものである。
 同心円を考えてみればわかることである。手記を書き出す前の独白の部分を大きな円として、その中心点を「人知らぬ恨」とすれば、その中心点を軸とした少し小さな円が、豊太郎の手記である。豊太郎の手記の中で中心点になっているのは、「一点の彼を憎む心」である。同じ中心点が、より大きな円である独白の中では「人知らぬ恨」と名付けられ、より小さな円である手記においては「一点の彼を憎む心」になるのは当然のことである。なお、わかりやすいように、中心点としたが、中心でなくても、同心円の中の同じ位置にある一点であっても、同じことである。