『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について47

舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
五、偽りの自己とその結果がもたらしたもの
 豊太郎の手記では、「まことの我」が顕れた後に「いままでの我」を「余が幼き頃より長者の敎を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ」と記している。「我」の姿について「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」と書いている。この事は、「まことの我」が顕れた後でも同じだったのではなかったか。
 エリスの家に寄寓するようになって、「朝の咖啡果つれば、彼は溫習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を讀み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截(き)り開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て來る一盞(ひとつき)の咖啡の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに插みたるを、幾種となく掛け聨(つら)ねたるかたへの壁に、いく度となく往來する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、溫習に往きたる日には返り路によぎりて、余と俱に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし」と記された箇所を読む時、豊太郎が精力的にベルリン通信員として働いているかのように読める。しかし、一方、エリスとの約束で、豊太郎は免官・免職になった事をエリスの母に隠している。したがって、まだ官吏であるふりを続けるには、「朝の咖啡果つれば」豊太郎はエリスの家を出ていかなければならない。オフィスを持たない豊太郎にとってオフィス代わりになったのが、「キヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所」だったのである。その中で、「定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ」て仕事をしていたのである。このあたりの描写は豊太郎のプライドの裏返しのように読める。そんな中で、楽しかったのは、「一時近くなるほどに、溫習に往きたる日には返り路によぎりて、余と俱に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女」と家に帰る事だったのである。
 そんな生活は「明治廿一年の冬は來にけり」(旧暦の十月一日、新暦では十一月四の日曜日である)によって、劇的に変化する。その劇的に変化する前に、「我學問は荒みぬ」でリフレインされる前二段落によって、それまでの自分のベルリン通信員の仕事ぶりを総括したのである。
 この「明治廿一年の冬」が来た日に、「エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻(つはり)といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし」と自分の前途を心配するのである。そんな折に、天方伯が豊太郎に会いたいと言うから急いで来てくれという相澤からの手紙が届く。
 ホテル・カイゼルホオフに着いた豊太郎は、大臣からは急ぎ翻訳してもらいたいとドイツ語の文書を渡され、相澤とは、ホテルの食堂で昼食を一緒にとる。その際に、豊太郎は相澤から「彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと」言われる。豊太郎は「貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑(しばら)く友の言に從ひて、この情綠を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵(かうてい)すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり」と手記には書いている。豊太郎の中では「貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」であって受動的な生活態度が明らかにされる。そして、「姑(しばら)く友の言に從ひて、この情綠を斷たんと」約束してしまうのである。もし、本当にエリスを愛しているのなら、これは背信的行為である。だからこそ、逆にエリスを真から愛していない事が明らかになるのである。
 わかりにくいのは、この後の「余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵(かうてい)すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり」という言葉である。これは船上からの考察の部分であるが、「友に對して否とはえ對へぬが常なり」と記しいるので、これは物語時間内においても「いままでの我」が「我」の主体であった事がわかる。それにしても「友に對して否とはえ對へぬが常なり」とは、あまりにも主体性がなくはないだろうか。「友」を一般名詞と考えるからわかりにくいのであって、この「友」に相澤謙吉を入れれば、「相澤に對して否とはえ對へぬが常なり」となり、わかりやすくなるのではないか。
 そもそも「明治廿一年の冬は來にけり」を境にして「まことの我」はどこにいったのであろうか。以降は、豊太郎は「まことの我」が持つ主体性を失っていく。
 天方伯一行が泊まっているホテル・カイゼルホオフに通うこと、一月ばかりした時に、豊太郎は大臣から、明朝、ロシアに向けて出発するが、ついてくるか、と問われる。豊太郎は「いかで命に從はざらむ」と答える。この時も不思議な記述が現れる。「余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて賴む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し難きに心づきても、強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」である。特に、「強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」は不思議な言葉である。今まで天方伯にいろいろと命じられてきたのならわかるが、ここは初めて命じられた事である。「耐忍してこれを實行すること屢々なり」にはあたらないだろう。とすれば、これまでの同様な事を振り返っての言葉であるという事になる。ここで、敢えて振り返ってこの言葉を書くのは、先行的に事柄を説明したいがためである。重要なのは「余はおのれが信じて賴む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し難きに心づきても、強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」の箇所である。
これは、後に、ロシア・ペエテルブルクでの労を天方伯からねぎらわれ、その時「われと共に東にかへる心なきか」と問われた時、豊太郎は「承はり侍り」と答えたときの方がよく当てはまる。
 なお、その直前に「若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり」と記しているので、今までのエリスとの生活は、豊太郎の本心からすれば満足のいくものではなかったことが明らかになる。ということは、エリスとの生活は本心を自ら欺いて、したがって、エリスやエリスの母を欺いて暮らしてきたことになる。
 豊太郎は「承はり侍り」と答えたものの、エリスがいる。ここに来て「その爲し難きに心づ」いたものの、どうすべきかは考えがない。「黑がねの額(ぬか)はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき」と記しているのは当然のことである。
 豊太郎は、結局エリスに言う言葉を失ったまま、家に帰り、そのまま人事不省に陥る。
 そして豊太郎の様子を伺いにエリスの家に来た相澤は、豊太郎が隠していた事柄をすべて知る事になる。相澤の事だから、豊太郎を説得したように、エリスに真摯に向き合い、説得すればわかってもらえると考えたのだろう。しかし、結果はエリスをパラノイアにしてしまう。
 エリスが倒れる直前に叫んだ「「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」」という言葉は、「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」の人生を送ってきた豊太郎に投げかけられた言葉として相応しく感じる。