『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について35

舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
第十四章 再、気取半之丞に与ふる書 其四
 其四は長いので、途中で区切ることにする。

(ア)忍月の人物題法について

 其四。僕が足下の人物題法をかりに承認して戯に草せし文は、大に足下に誤解せられたるものに似たり。独逸の老学士輩が事を論ずる毎に、動もすれば系統を立て、条款を設け、法令の如き筆法を用ゐるを、ハイネは笑ひぬ。僕は心の往くまゝに筆を走らするものにて、足下の如き文学上の立法者ならねば、人にものいひて必ずこれを守らせむとも思はず、又人の文をおのれが鋳型に嵌めむとも思はず。是ぞ足下が誤解せられし源なる。
 気取の法を守らば、題名は一篇の成る毎に早く移動すべからざる世の中となりたり。気取は已に人物題を下すものに向ひては、主人公の名又は職又は資格を挙げよといふ。此の如く法を立て来らば、事物題には主人公が持物を挙げよなどといはむも遠からじ。僕が論の意は実に此に在り。僕が笑ふ所も亦実に此に在り。足下があらゆる小説の題号を主人公の名にせよとは言はざりしことは分明なり。誰も足下をさほどに不思議なる立法者とはおもはざるべし。善き例は足下のこゝにて主人公の名にせよとはいはざりしを相沢しか解し
たりといはるゝは、主人公の名又は職又は資格にせよとはなどいふべき処なるべきを、足下もかく省きて記し玉ふにあらずや。人の文を読むに、かゝる処にのみ心を着けて観るは、心なき業なり。足下の誤解は盖多く此類なり。
【意訳】『その四。僕が貴殿の人物題法をかりに承認して戯れに作りあげた文は、大いに貴殿に誤解されたものに似ている。独逸の老学士輩が事を論ずるごとに、動(やや)もすれば系統を立て、条款を設け、法令のごとき筆法を用いるを、ハイネは笑った。僕は心の赴くままに筆を走らせるもので、貴殿のごとき文学上の立法者でなければ、人にものを言って必ずこれを守らせようとも思わず、また人の文を自分の鋳型に嵌(は)めようとも思わない。これが貴殿が誤解された源である。
 気取の法を守れば、題名は一篇の成る毎に早く移動することができない世の中となってしまう。気取はすでに人物題を下すものに向かっては、主人公の名または職または資格を挙げよと言う。このように法を立てるならば、事物題には主人公が持ち物を挙げよなどと言うのは遠くはないだろう。僕の論の意は実にここにある。僕が笑うところもまた実にここにある。貴殿があらゆる小説の題号を主人公の名にせよとは言わなかったことは明らかである。誰も貴殿をそれほどに不思議な立法者とは思わないからである。いい例は貴殿のここにて主人公の名にせよとは言わなかったのを相沢だけが理解したと言われるは、主人公の名または職または資格にせよとはなど言うべきところであるべきを、貴殿もかく省いてお書きになったのではないだろうか。人の文を読むに、かかるところにのみ心を着けて観るは、心なき業である。貴殿の誤解の甚だ多くはこの類いである。』

(イ)
 足下の長編の複稗などに初に士人なりしもの(これも正さば主人公のとありたし)が商賈となり亦乞丐となることある場合に、必ず強て職業身分(こゝも気取流の誤解を防がむとせば主人公のとありたし)を以て題名とせよと言ひしことなきは洵に然り。長篇の複稗に人物題を設けむとするは何人にも起るべき考なれば、このをり必ず強て気取家法に乖かじとすれば、逐号換題の必要も起るべし。かゝるときに人物題となるものゝ決して主人公に限らざるは已に屢論ぜし如くなるに、茲に人ありて此複稗に人物題を下さむと定め、さてその人物題は人物の職にせむと定めたるとき、気取氏は此職を主人公の職にきまりたるやうにいへばこそ僕が挙げし怪事は起るなれ。何者の小説家か此境地に立ちて足下の法を守らむとする。主人公が鰻屋なるとき蒲焼と題せよとは流石に足下もいはねど、詩題を以て蒲焼の招牌と一般におもふは奇怪ならずや。レツシングの兵士の幸福にして足下の法文に乖きしものならずば、何故に小説の人物題の必ず主人公(足下はミンナに当て玉へり)なるべくして、小説の人物境遇題の必ずしも主人公の境遇(例へばミンナの受弊)ならざる理を示せ。拈華微笑につきては、戯に紅葉山人のために謀りて、是の如く思を費すまでもなく、人物題を下し、さて気取法に従ひしかた好かりしならむと云ひしのみ。風流仏はお辰にても可なり、舞姫はエリスにて不可なる理は猶足下の説を聞かまほし。
【意訳】『貴殿の長編の複稗などに初めに士人であったもの(これも正さば主人公のとあってほしい)が商売人となりまた乞食となることある場合に、必ず強いて職業身分(ここも気取流の誤解を防ごうとすれば主人公のとあってほしい)をもって題名とせよと言ったことがないのはまことにそうである。長篇の複稗に人物題を設けようとするは何人にも起こるべき考えであれば、この折必ず強いて気取家法に合わせようとすれば、逐号換題の必要も起こるだろう。このような人物題となるものの決して主人公に限らないのはすでにしばしば論じたごとくであるに、ここに人ありてこの複稗に人物題を下そうと定め、さてその人物題は人物の職にしようと定めたとき、気取氏はこの職を主人公の職に決まっているように言えばこそ、僕が挙げた怪事が起こることになる。何者の小説家かこの境地に立って貴殿の法を守ろうとするだろうか。主人公が鰻屋なるとき蒲焼と題せよとはさすがに貴殿も言わないけれど、詩題をもって蒲焼の招牌と一般に思うは奇怪ではないだろうか・レツシングの兵士の幸福にして貴殿の法文に合わせることができなければ、何故に小説の人物題の必ず主人公(貴殿はミンナに当て玉へり)であるべくして、小説の人物境遇題の必ずしも主人公の境遇(例へばミンナの受難)ではない理を示せ。拈華微笑については、戯れに紅葉山人のために謀って、このごとく思いを費やすまでもなく、人物題を下し、さて気取法に従う方法はよかったことだと言うのみである。風流仏はお辰にても可である。そうであれば舞姫はエリスにて不可なる理由は、なお貴殿の説を聞かせてほしい。』

(ウ)
 これほどの事は、足下の明弁じ得ぬにもあらざるべきに、かく「チエエテル、モルヂオ」を叫び玉ふは、僕の足下のために取らざる所なり。曰訳の分らざる人、曰不能力者、曰豕が大好だよと口を尖らせ来る者、曰藁人形に空鉄砲を放つもの、曰天に向ひて唾するもの、曰独よがり、曰横にねぢる者、日迂、曰狂、曰乱、曰血迷、是れほどの雅馴の言を江湖新聞の二段の間に収めたまひし御技倆は感服の外なし。例の第二妄につきては、足下が他人の著作の題号を見て、我儘なる望を嘱し、後に望を失ひたまひし魂胆、誰か之を抑制せむ。唯舞姫を評したる言としては、世間これを受取るものなからむのみ。
【意訳】『これほどの事は、貴殿の明らかに論じることができないものでもないが、かく「チエエテル、モルヂオ」を叫びたまうは、僕が貴殿のために取らないところである。いわく訳の分らざる人、いわく不能力者、いわく豕が大好だよと口を尖らせ来る者、いわく藁人形に空鉄砲を放つもの、いわく天に向ひて唾するもの、いわく独よがり、いわく横にねぢる者、いわく迂、いわく狂、いわく乱、いわく血迷、これほどの雅馴(文章や態度に品があり洗練されていること)の言を江湖新聞の二段の間に収めたまいし御技倆は感服の外なし。例の第二妄については、貴殿が他人の著作の題号を見て、我儘な望みを嘱し、後に望みを失ひたまいし魂胆、誰かこれを抑制しようか。ただ舞姫を評した言としては、世間はこれを受け取るものがないだけである。』

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第十三章
     舞 姫 三 評(続)                    気取半之丞

予ハ舞姫の文中に於て、無用重複の点を挙示し得ざるに非ず、而るに再評に之を挙示せず只其代りに丹次郎云々の簡単なる文のみを提出したるハ、予が相沢君足下を以ッて訳の分りたるお方と誤想したるが故なり、普通の慮りを以ッて普通の人を推したるが故なり、貴重の紙白を須要あらざる舞姫の如きものに就て、塡充するの不得策なるを悟りたるが故なり、然れども足下が不普通にして普通の思慮を以ッて推すべからざるや、あれにてハ猶御合点参らざるよし、さらば致し方なし予ハ是より其無用重複なるを挙げん、請ふ足下之を聞け、
彼の六十余行なくとも太田生が日本人たること、高等の教育あるものたること、留学生たること、官命を帯びて西に航したるものなること、伯林大学に入学せしこと、而して法律を学びしこと、母の故郷に在ること等ハ舞姫七ページ下段十二行より以下、八ページ下段十八行より以下、九ページ下段十二行より以下、及び其他所々に散見する前後の関係を以ッて明かに知られ得るにあらずや、予ハ曾て足下に倒叙法を用ゆべしと云ひしことあらず然れどもかゝる重複なることハ「殆ど無用」(原評の文字)と思惟するなり、伯林の境を叙するの十九行も、足下ハ此富麗勢(ママ)閙の状を写して、伯林が啻に寂寥荒漠の天地に非ざるを知らしめんとの御所存のよし、異なる哉言や小説豈に此の如きものならんや、太田生が居留の地、経歴の地の光景を漏さず写さゞる可からざる必要あるか、果して然らば太田生が訪ひし劇場の光景をも、大学内の組織結構をも、学生の気風習慣常行をも、伯林の夏の (ブランクママ)景も秋の景も春の景も、公園の景も、獣宛(ママ)の景も写さゞるべからざるにあらずや、必竟するに本篇の主眼ハ恋愛と功名との相関に在り、故に其主眼さへ忘れずんば他ハ深く顧ミるに及はず、よし顧みざるにせよ、此等の風景の大略ハ主眼に附属して点出さるゝを得るなり予ハ決ッして我儘なる立法者にハ非らず、請ふ足下、浄机孤燈、黙坐して考再考せよ、必ず足下の剛情なることを悟らする者あるべし「石炭をば早や積果てつ中等室の卓」云々より「鈴索を引き鳴らして謁を通じ」云々等に至るまでくどい程書き並べながら、足下ハ太田を称して省筆に長じたりと云う(「う」にママ)。真ハ笑うべし又予ハ「(「「」にママ)人の己れが指点したる瑕瑾を承認すると否とに由り己れが意見をかへんとする者 (ブランクママ)に非ず、無用と言ひ、略筆の秘訣を知らざる拙手と言ふも、帰する所ハ同一理なり、只無用と言ふ字が足下の感触を害するを恐れて、他言を以ッて云ひかへしのみ、車屋が参りましたト言ハるゝより御家来(若しくハお供)さんが見えましたと言ハるゝ方がお客様の御機嫌よきが如し、初めに無用と言ひ重複と云ひ後に「略筆の秘訣を知らざる云々」と云ひしとて、真赤になりて怒鳴るハ、車屋とお供とを別物と誤想するものと一般、左団治役の気俠男‐‐相沢氏にも似合ぬ野暮なことかな〳〵是れ予が笑留を拒む第三なり
       (「江湖新聞」第六十九号)
【意訳】『私は舞姫の文中において、無用重複の点を挙示し得なかったわけではない。しかるに、再評にこれを挙示せず、ただその代わりに、丹次郎云々の簡単な文のみを提出したのは、私が相沢君貴殿をもって訳の分かったお方と誤想したが故である。普通の思いやりをもって普通の人を推したが故である。貴重の白紙を須要(必須)ではない舞姫のごときものについて、充(じゆう)塡(てん)(空所を詰めること)するの不得策(不利益)であるのを悟ったが故である。しかれども、貴殿が不普通にして普通の思慮をもって推すべきでないか、あれにてはなお御合点参らないよし、さらば致し方ない、私はこれよりその無用重複なるを挙げよう、請う貴殿、これを聞け。
あの六十余行なくても太田生が日本人たること、高等の教育あるものたること、留学生たること、官命を帯びて西に航したものであること、ベルリン大学に入学したこと、しこうして法律を学んだこと、母の故郷に在ること等は舞姫七ページ下段十二行より以下、八ページ下段十八行より以下、九ページ下段十二行より以下、及びその他所々に散見する前後の関係をもって明らかに知られ得ることではないか。私はかつて貴殿に倒叙法を用いるべしと言ったことはない。しかれどもかかる重複なることは「殆んど無用」(原評の文字)と思惟するものである。ベルリンの景色を叙するの十九行も、貴殿はこの富麗勢(ママ)閙の状を写して、ベルリンがただに寂寥荒漠の天地にあらざるを知らせようとの御所存のよし、異なる哉言や。小説はどうしてこのようなものであろうか。太田生が居留の地、経歴の地の光景を漏らさず写さなければいけない必要があるか。果してしからば太田生が訪れた劇場の光景をも、大学内の組織結構をも、学生の気風習慣常行をも、ベルリンの夏の景も秋の景も春の景も、公園の景も、獣宛(ママ)の景も写さなければならないのではないのか。畢竟するに(結局)本篇の主眼は恋愛と功名との相関にある。故にその主眼さえ忘れなければ他は深く顧みるに及ばない。よし顧みないとしても、これらの風景の大略は主眼に附属して点出されるのを得るものである。私は、決して我儘な立法者ではない。請う、貴殿、浄机孤燈、黙坐(無言で座っていること)して考を再考せよ。必ず貴殿の剛情なることを悟らせる者があるだろう。「石炭をば早や積果てつ中等室の卓」云々より「鈴索を引き鳴らして謁を通じ」云々等に至るまでくどい程書き並べながら、貴殿は太田を称して省筆に長じていると言う。真は笑うべし、また私は人の己が指摘した瑕瑾を承認すると否とにより己の意見をかえようとする者ではない。無用と言い、略筆の秘訣を知らざる拙手と言うも、帰するところは同一の理である。ただ無用という字が貴殿の感触を害するを恐れて、他言をもって言い換えたのみである。車屋が参りましたと言われるより、御家来(もしくはお供)さんが見えましたと言われる方がお客様の御機嫌よきがごとく、初めに無用と言い重複と言い、後に「略筆の秘訣を知らざる云々」と言ったとしても、真赤になって怒鳴るは、車屋とお供とを別物と誤想するものと同じ、左団治役の気俠男‐‐相沢氏にも似合わぬ野暮なことであるかな。これ私が笑留を拒む第三である。』

『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について33

舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
第十二章 再、気取半之丞に与ふる書 其三
 その三は、再び、題名について、小説中に人物がでてきた場合、その人物の中でも主人公の名を題名としなければならないとする忍月の論理(忍月は初めは必ずしも、そのように言っていたわけではないが、鷗外の挑発によりそのように言っているようにされている)について反論を加えている。

 其三。読みてこゝに至らば、足下は将に意を得て云はむとす。見よ爾も亦遂に舞姫の題の不穏当なることを悟りたるにあらずやと。而れども足下の此念を做すは盖大なる迷なり。古人曰く。彼にして大家ならむか。我将に瞠目して自ら出る所を知らざらむとす。彼已に大家にあらず。故に我之を笑ふと。彼新詩律の条目中、小説の題にして人物に取ることあらば、宜しく主人公を以て之に充つべしといへるなどは、僕の固より度外視する所なり。僕は唯姑らく之に従ひて其なりゆきを見しのみ。足下は此条目の成立つべき理なりとて、主人公の編中おもなる人なること、猶一家の主人のごとくなりと云ひ、門牌まで引きて論ぜられたれど、是れ人物題の主人公を取るべき所以にあらず、主人公の講釈のみ。主人公の講釈にあらず、主人公の類例のみ。其新詩律の成りたちに於ける、何の関係する所かあらむ。若又小説の題に主人公の名を署するは、人家の門楹に主人の名を題するに同じといはゞ、これも又一類例のみ。類例は説明の力ありて証拠の力なし。僕にして小説の題は一般の詩題と同じく、人家の門牌などに殊なりといはゞ、それまでの事ならずや。詩題は実に此の如く没趣味なるものにあらざるなり。
 又主人公が編中のおもなる人物なることを証するは難事に非ず。人家の主人、民屋の門牌、鰻屋蕎麦屋の招牌を援出づるまでのことならず。縦令之を証したればとて、その主人公が人物題の命ぜらるゝとき必ず其選に中るべきことは、僕の承認する所にあらず。又僕の其理を解する所にあらざるなり。嗚呼、此一妄の足下の許に留まらざるべからざる道理は実に一にして足らず。僕は足下の他の諸妄の返璧を待ちて、又稿を継いでこれを論ぜむとす。
【意訳】『その三。読んでここに至れば、貴殿はまさに意を得て言おうとする。見よ、しかもまた遂に舞姫の題の不穏当であることを悟ったのではないと。しかれども貴殿のこの念をなすは壮大な迷いである。古人いわく。彼にして大家ならむか。我まさに瞠目(驚きや感心で目をみはること)して自ら出るところを知らないだろうとする。彼はすでに大家ではない。故に我これを笑うと。彼は新詩律の条目中、小説の題にして人物に取ることあれば、よろしく主人公をもってこれに当てるべきであると言えるなどは、僕のもとより度外視するところである。僕は唯しばらくこれに従ってそのなりゆきを見ただけである。貴殿はこの条目の成り立つべき理であるとして、主人公の編中おもなる人であること、なお一家の主人のごとくであると言い、門牌(表札)まで引いて論じられたけれど、これ人物題の主人公を取るべき所以ではない。主人公の講釈のみである。いや、主人公の講釈でもなく、主人公の類例のみである。その新詩律の成り立ちにおいて、何の関係するところがあるのか。もし、また小説の題に主人公の名を署するは、人家の門楹(表札)に主人の名を題するに同じと言えば、これもまた一類例のみである。類例は説明の力はあっても証拠の力はない。僕にして小説の題は一般の詩題と同じく、人家の門牌などに殊なりと言えば、それまでの事になってしまう。詩題は実にこのごとく没趣味なるものにないものである。
 また主人公が編中のおもなる人物であることを証するのは難しいことではない。人家の主人、民屋の門牌、鰻屋蕎麦屋の招牌を援出づるまでのことでもない。たとえこれを証明したとしても、その主人公が人物題の命じられるとき必ずその選にあたるべきことは、僕の承認するところではない。また僕のその理を理解することもない。嗚呼、この一妄の貴殿の許に留まらなくてはならない道理は実に一にして足りない。僕は貴殿の他の諸妄説の返答を待って、また稿をつないでこれを論じようとする。』
ここでいったん議論が切れている。

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舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
第十一章
     舞 姫 三 評   気取半之丞

舞姫エリスは実に識見なき、文盲なる、価値なきの痴女なり、故に予ハ失望したり、失望したるが故に失望したりと云へり、予ハ他よりかく〳〵の囲範内に於て、是れ〳〵だけのことを云へと命ぜられたるに非ず、然らば予ハ予の思ふ所を吐露するも自由なり、予の心中の魂胆を公にするも自由なり、若し予が失望せるを以って「舞姫」其者を攻撃せしならば予ハ批評家として其責めに当り、其失を謝せざる可からざれども、予ハ未だ其失なし何ぞ其責に当るを要せんや、相沢氏足下、足下ハ如何なる異妙の口実あって予の自由を抑制せんとする歟、是れ予が笑留を拒む第二なり、               (つゞく)
       (「江湖新聞」第六十九号)
【意訳】『舞姫エリスは実に見識なき、文盲なる、価値なきの痴女である。故に私は失望した。失望したが故に失望したと言ったのである。私は他よりかくかくの範囲内において、これこれだけのことを言えと命じられたのではない。しからば私は自分の思ふところを吐露するも自由である。私の心中の魂胆を公にするも自由である。もし、私が失望するをもって「舞姫」その者を攻撃したのならば私は批評家としてその責めに当たり、その失敗を謝らざるを得ないけれども、私はいまだその失敗はしていないので、何でその責に当たるを要しなければならないのであろうか。相沢氏、貴殿はいかなる異妙の口実あって私の自由を抑制しようとするか。これ私が笑留を拒む第二である。        (つづく)』       (「江湖新聞」第六十八号)

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第十章  舞姫四評

     舞 姫 四 評   気取半之丞

世に訳の分らざる人多し、然れども相沢謙吉氏の如きハ鮮矣、又世に不能力者なるものあり一隅を挙ぐるも他の三隅を推悟し得ざるハ勿論挙示したる一隅さへ大半ハ誤解して終に挙示者の労を水泡に帰せしむ、是に於てか予ハ不能力者に向ッて弁論説明するの頗る無用なるを知る。世評に曰く相沢氏ハ不能力者にあらず聡明の士なりと、是に於てか予ハ又茲に一文を草して相沢氏に質すに至れり、
江湖氏曰く人と物事を論議するに当つて先方の馬鹿なるハ猶ほがまんの仕様あるなり、大抵馬鹿なるハ正直ゆゑ此方より懇ろに解き聞かせば合点の参るものなり只閉口なるハ一寸利口そうなふりをなし此方より循々数百言を費やすも之を聞き誤り之を解し誤りて人が是ハ豚の図だよと言へばナニ豚ハ大好だよと口を尖らし来るか如し云々と真に然り予ハ相沢氏の喋弁(言論とは云はず)に於て多少此感なき能はず、相沢君足下、予ハ足下が昨日の国民新聞に載せたる書慥かに拝見せり、然れども予ハ之を拝見して一時ハ是の書果して予に与へられたるものなるや否やとの疑念を生ぜり何となれば足下の言ふ所ハ総て藁人形に空銕鉋を放つものなればなり、予は小説もし人物を以ッて題号とせば必ず主人公を撰ぶべしと言ひし覚あるも未だ主人公を以ッて必ず小説の題号に撰ぶべしと云ひし覚あらず、足下曰く気取の法を守らば一篇の成る毎に題名は早く移動すべからざる世の中となりたりと何が故に移動すべからざる歟、予ハ只主人公を以ッて人物題に撰ふ所以を説明せしのみにて、未だあらゆる小説の題号を主人公の名にせよとハ言はざるなり、試に問はん、予は果して長篇の複裨などに初めに士人なりしものが商賈となり又乞丐となることある場合に、必ず強ひて職業身分を以ッて題名とせよと云ひしことある歟、主人公が鰻屋なるときハ蒲焼と題すべしと云ひしことある歟、レッシングの「兵士の幸福」ハ法文に乖きたりと云はんとせしことある歟、「括華微笑」の題ハ改めて「判任官」となすか若くハ其他の身分職業を以ッて題とすべしと云ひしことある歟、「風流仏」ハ人物題なり若くハ人物題にあらずなどゝ言ひしことある歟、アゝ足下ハ天に向ッて唾きするものなり、敵なきに空砲を放つものなり、議論外のことを喋々して独よかりするものなり、足下ハ他の議論を横にねぢりて強ひて攻撃の材料を附造するものなり、足下が舞姫を改めて、「我」となすも「留学生」となすもソハ御勝手次第なり、もし足下予の前陳の問に対し、一々責を予に担はすることを得ば然る後予ハ重て堂々お相手致すべし、予に対はざる空砲空拳ハ之を局外に立て傍観せんのみアゝ足下ハ堂々たる批評家らしき言を出して其識見殆んど明治の欧(ママ)外を圧するものゝ如くなるに、独り「舞姫」を論ずるに当ッてハ一に何ぞ迂なる、一に何ぞ狂なる、一に何ぞ乱なる
 序に白す露伴の冷茶云々は忍月に向って申さるべし、お門違ひの問ひハ此気取の知る所にあらず、血迷ふ (ブランクママ)たか相沢殿チトおたしなみなされ
       (「江湖新聞」第六十八号)
【意訳】『世に訳の分からない人も多いが、しかれども相沢謙吉氏のごときは少ない。また世に不能力者なるものがいる。一隅を挙げるも他の三隅を推し量ることができないのはもちろん、挙示している一隅さえ大半は誤解して終に挙示者の労を水泡に帰させる。これだから私は不能力者に向かって弁論、説明することはすこぶる無駄であることを知る。世評にいわく、相沢氏は不能力者ではなく聡明の士であると、これについて私はまたここに一文を草して相沢氏に質すに至ったのである。
江湖氏いわく、人と物事を論議するに当たって先方の馬鹿なるは、なお我慢の仕様がある。たいてい馬鹿なるは正直ゆえこちらより丁寧に解き聞かせれば合点の参るものである。ただ、閉口するのは、ちょっと利口そうなふりをなしこちらより長々と数百言を費やしてもこれを聞き誤り、これを解し誤って、人がこれは豚の図だよと言えば、なに豚は大好きだよと口を尖らして来るかのごとし云々と真にこのようである。私は相沢氏の喋弁(言論とは言わない)において多少この感なきを能わず。相沢君貴殿、私は貴殿が昨日の国民新聞に載せた書を確かに拝見した。しかれども私はこれを拝見して一時はこの書、果して私に与えられたものであるや否やとの疑念を生じた。何となれば貴殿の言うところは総て藁人形に空鉄砲を放つものであるからである。私は小説、もし人物をもって題号とすれば必ず主人公を選ぶべしと言った覚えはあるものの、いまだ主人公をもって必ず小説の題号に選ぶべしと言った覚えはない。貴殿いわく、気取の法を守らば一篇の成る毎に題名は早く移動できない世の中となったと、何が故に移動できないか。私はただ主人公をもって人物題に選ぶ所以を説明しただけである。いまだあらゆる小説の題号を主人公の名にせよとは言ってはいない。試しに問おう。私は果して長篇の複稗などに初めに士人なりしものが商賈となりまた乞食となることがある場合に、必ず強いて職業身分をもって題名とせよと言ったことがあるか。主人公が鰻屋なるときは蒲焼と題すべしと言ったことがあるか。レッシングの「兵士の幸福」は法文にそむきたりと言おうとしたことがあるか。「括華微笑」の題は改めて「判任官」となすか、もしくはその他の身分職業をもって題とすべしと言ったことがあるか。「風流仏」は人物題なり、もしくは人物題にあらずなどと言ったことがあるか。嗚呼、貴殿は天に向かって唾きするものである。敵がいない時に空砲を放つものである。議論外のことをしきりにしゃべって独りよがりするものである。貴殿は議論を横にねじり、強いて攻撃の材料を作りあげるものである。貴殿が舞姫を改めて、「我」となすも「留学生」となすもそれは御勝手にすればいい。もし貴殿が私が前に述べた問いに対して、一々責を私に担わせることをすれば、しかる後私は重ねて堂々お相手致すべし、私に対わざる空砲空拳はこれを局外に立て傍観せんのみである。嗚呼、貴殿は堂々たる批評家らしき言を出して、その見識ほとんど明治の欧(ママ)外を圧するもののようであるのに、独り「舞姫」を論ずるに当たっては一に何ぞ迂(疎いこと)なる、一に何ぞ狂なる、一に何ぞ乱なる。
 序に白す露伴の冷茶云々は忍月に向かって申されるべきである。お門違いの問いはこの気取の知るところではない。血迷うたか相沢殿ちとおたしなみなされ』

『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について30

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(ウ)題名に相応しいもの
 題名にからんで、忍月が鰻屋のことを持ち出してきたのだが、鷗外は「主人が鰻屋なるときは蒲焼と題すべし」と言い返している。実は私は、相澤謙吉が天方伯の秘書官であるなら、当時誰がその官職に就いていたのかを調べたことがある。三、四人ほど候補があったのだが、その中でも最も相澤謙吉に適していたのが、小松原英太郎*1だったのである。彼はここで話題にされている正に鰻問屋の長男として生まれているのである。その後慶應義塾に入学し、政治経済を学び、新聞記者になっている。慶應義塾と言えば、福澤諭吉だが、相澤謙吉という名は、どこか似てはいまいか。

 法の説明書に曰く。主人公の名若くは資格若くは職業を撰びて名とすべき所以は、猶一家の門口に戸主の牌を掲ぐるごとしと。但し長篇の複稗などに至りては、初に士人なりしもの商賈となり、又乞丐などとなることあり。かゝるをりには家督相続と一般初篇の題を若侍と云ひ、第二篇のを小間物屋といふなども面白からむと察せらる。足下は又親切にも主人が鰻屋なるときは蒲焼と題すべしといふやうにいはるゝ故、さらば留学生などは西洋書などともいふべきかと思へど、レツシングが兵士の幸福は已に法文に乖きたりといはるれば、かゝる危きことは思ひとゞまるべきならむ。
【意訳】『法の説明書にいわく。主人公の名もしくは資格もしくきは職業を選んで題名とすべき所以は、なお一家の門口に戸主の牌(表札)を掲げるようなものであると。但し長篇の複雑な物語などに至っては、初めに士人であったものが商売人となり、また乞食などとなることもある。このような折には、家督相続と一般初篇の題を若侍と言い、第二篇のを小間物屋と言うなども面白いだろうと察せられる。貴殿はまた親切にも主人が鰻屋であるときは蒲焼と題すべきであるというようにいわれる故に、そうであれば留学生などは西洋書などとも言うべきかと思えど、レツシングの兵士の幸福はすでに法文にそむいているといわれれば、このような危きことは思い留まるべきであろう。』
*1小松原英太郎(嘉永五年二月十六日(一八五二年三月六日)‐大正八年(一九一九年)十二月二十六日)

(エ)『風流仏
 忍月が尊敬している作家に幸田露伴*1がいる。一八八九年に吉岡書籍店から『風流仏』という作品を出している。『風流仏』は和漢折衷体の難解な小説であるが、幸田露伴が世に認められた作品である。内容は、珠運が旅先で貧乏で薄幸のお辰に出会う。二人は恋に落ち、結婚の約束をするが、その直前にお辰は奪い去られてしまう。珠運はお辰を思い、その姿を彫刻に彫り続ける……、といった話である。最後は仏に救われ、珠運はお辰と共に手を携え肩を並べ悠々と雲の上に行くといった大団円を迎える。

 聞道らく。露伴子は足下の渇仰して紫雲堆裏に膽望せらるゝ人なりと。此人の小説の風流仏は忍月居士といふ人の評にては昨年第一なるよし。題号にも難なしとのことなりき。凡眼にて見れば珠運は太田豊太郎にて、お辰はエリスなる如く見えたり。これも足下の月旦壇上より瞰下さば、仔細あらむ。或は法律上風流仏は仏なり、人に非ず、故に人物題の条例には抵触せずなどといふ魂胆もあらむ。足下幸に教を垂れよ。
【意訳】『聞道らく(聞き道楽)。露伴氏は貴殿の心のよりどころにして紫雲(めでたい雲)堆裏に羨望される人であると。この人の小説の『風流仏』(小説の題名)は忍月居士という人の評にては昨年第一であるということである。題号にも難なしとのことであるそうである。凡人の目から見れば、珠運は太田豊太郎に似て、お辰はエリスのように見える。これも貴殿の人物批評を壇上より見下ろせば、仔細があることだろう。あるいは法律上風流仏は仏なり、人ではない。ゆえに、人物題の条例には抵触しないなどという魂胆もあるのかもしれない。貴殿、よろしくそのあたりを教えるべきではないか。』
*1幸田露伴(一八六七年八月二十二日(慶応三年七月二十三日)‐一九四七年(昭和二十二年)七月三十日)

『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について29

舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
第九章 再、気取半之丞に与ふる書 其二……再び表題・題名の話題に入る
 其一では、小説の表題・題名をつける時は、主人公をもってつけるべきか否かを論じたが、ここでは「舞姫」という題号そのものについて論じている。
 其二は、長文であるので、段落毎に分割することにする。

(ア)舞姫の題号について
 鷗外はまた、「舞姫」という題号について論じている。

 其二。かく書くをりに、又々我頭上に向ひて門違へにも抛還へされしは舞姫の題号なり。小説若人物を以て題号とせば、必ず主人公を撰ぶべし、といふことの足下の趣意なるに似たるは、既に前論にても味ひ得たりしが、今に迨りて足下はこれを法の明文に写して、公衆面前に披露せられたり。読みて一歩を進むれば又少しく此文の解釈めきたるものを見る。云く主人公は重要主宰の地位に立つが故に人物若くは身分職業を以て小説の題名となすときは、主人公若くは主人公の身分職業を撰ぶべしと。僕は大声疾呼して天下の小説家と詩人とに告げむ。詩を賦せむとするものも、小説を編まむとするものも、是れよりはいと心安き世の中とこそなりにたれ。一篇の成る毎に、題名は早く既に移動すべからず。早く既に論理的の結果として定まりたり。拈華微笑などと洒落なる語をなすも無駄なり。所詮審美学上の有情滑稽などに気の附く読者は、不知庵を除きたる外には一人もなき世の中にて、少しく悲壮滑稽などの味を含みたるものを見れば日に吠ゆといふ蜀の犬、表面は誠に悲しと雖、裏面は大に可笑し、紅葉は実に涙の後にかくれて諧謔を弄する者なり、其弊
は残忍となるなどゝ一批了す。僕が如きは悲壮の裏面より笑顔を見せむと幾度か手を着けしが、及ばぬ事と諦めたり。閑話は姑く置き、これなども矢張人物題になほして、判任官とか何とか法文に照らして附けしかた当世にむきたりけむものを、あだ骨折られしは惜しきことなり。舞姫とても同じ。何故に鷗外漁史は太田豊太郎と題せざりけむ。何故に留学生と題せざりけむ。今さらに悔思ふ所ならむ。【意訳】『その二。このように書く折に、またまた私の頭上に向かってお門違いにも放り返されたのは舞姫の題号である。小説、もし人物をもって題号とすれば、必ず主人公を選ぶべである、ということの貴殿の趣意(意見)なるに似ているのは、すでに前論にても味わい得たが、今に至って貴殿はこれを法の明文に写して、公衆面前に披露された。読んで一歩を進めばまた少しくこの文の解釈めいたものを見る。いわく、主人公は重要主宰の地位に立つが故に人物もしくは身分職業をもって小説の題名となすときは、主人公もしくは主人公の身分職業を選ぶへきであると。僕は慌ただしく大声を出して天下の小説家と詩人とに告げよう。詩を作ろうとするものも、小説を編もうとするものも、これよりは大変心安き世の中とこそなるだろう。一篇の成るごとに、題名は早くすでに動かしてはいけない。早くすでに論理的の結果として定まっている。拈華微笑などと洒落た語をつけるのも無駄である。所詮審美学上の有情滑稽などに気のつく読者は、不知庵(人名か?とすれば内田魯庵を指しているのか)を除いた外には一人もない世の中にて、少しく悲壮滑稽などの味を含んでいるものを見れば日に吠えるという蜀の犬、表面は誠に悲しいといえども、裏面は大いに笑い、紅葉は実に涙の後にかくれてたわいもないことを言って笑わせる者である。その害は残忍となるなどと一批了する。僕がごときは悲壮の裏面より笑顔を見せようと幾度か手を着けたが、及ばぬ事と諦めた。無駄話はしばらく置き、これなどもやはり人物題になおして、判任官とか何とか法文に照らして付けた当世に向いているだろうものを、あだ骨を折られたのは惜しいことである。舞姫とても同じ。何故に鷗外漁史は太田豊太郎と題しなかったのだろうか。何故に留学生と題しなかったのだろうか。今さらに悔やみ思うところであろう。』
 最後の「舞姫とても同じ。何故に鷗外漁史は太田豊太郎と題せざりけむ。何故に留学生と題せざりけむ。今さらに悔思ふ所ならむ」は、明らかに忍月に対する嫌味である。

(イ)一人称小説について
 『舞姫』を一人称小説と解した時の、題名についての諧謔の論である。

 又一転しておもへば、舞姫は日記体より出でゝ所謂我(イヒ)稗(ロマアン)の一種なれば、主人公の資格は我なり。されば気取氏家法の神髄を得て、我などと題せば、足下の称歎にあづかりやせむ。但ギヨオテの真仮自伝などと混れむも口惜し。此弊を防がんには万国の文学史を探りて、最古き我稗より第一号第二号と番号を打ちて、例へばギヨオテの自伝は我の第三千三百三十三号、鷗外の舞姫は我の第一万零何号などゝいはゞ、文学史の編輯上にも大利益を与ふべし。
【意訳】また一転して思えば、舞姫は日記体より出ていわゆる一人称小説(本稿では「我稗」を「一人称小説」と呼ぶ)の一種であれば、主人公の資格は我である。そうであれば、気取氏家法の神髄を得て、我などと題せば、貴殿の賞嘆にあずかるかもしれない。ただし、ゲーテを真仮(真なのか仮なのか区別のつかないこと。ここでは「まねた」と訳すことにする)自伝などと思われるは口惜しい。この害を防ごうとすれば、万国の文学史を探って、最も古い一人称小説より第一号第二号と番号を打って、例えばゲーテの自伝は我の第三千三百三十三号、鷗外の舞姫は我の第一万零何号などと言えば、文学史の編集上においても大いに利益を与えることだろう。』
 
 世界中の、全ての一人称小説をナンバリングしようとするのは鷗外の奇想ではあるが、ゲーテの自伝を「第三千三百三十三号」とし、『舞姫』を「第一万零何号」と並記したのは、それなりの自負であろう。