虹の非晶質(アモルファス) 1

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 文学について書いていく時に、私の基本となっている評論(と言えるかどうか分かりませんが)が、あります。それは「虹の非晶質(アモルファス)」です。三十年ほど前に書いたものです。しかし、その内容は現在にもあてはまると思っています。
 ブログを始めるにあたり、まずこの「虹の非晶質(アモルファス)」から出発しようと思います。
 なお、「虹の非晶質(アモルファス)」は、少しく長い文章なので、各章に切り分けて載せていくことにします。
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   虹の非晶質(アモルファス)

今は文学にとって不幸な時代だ、という嘆きはここ数年に始まったことではない。いつの世でも「現在」は文学にとって不幸な時代なのだ。
 価値の輪郭は「現在」から十数年後でなければはっきりしない。しかし作家はそれを現時性の中でしなければならない。価値の方向を見誤った場合、作品はただ風化するだけだ。


・・・アンケートの哲学・・・

アンケートは一人一人の意識を数量的なものに変換する。数字が主張し始めるのは、多数決原理の依って立つ所であるが、たとえばカント的意識が数量の一単位として数えられることの無気味さは拭いようもない。
 浅学にしてその起源を知らないが、アンケートが世の中の何ものかを示すのに本質的な意味を持つようになったのは今世紀に至ってである。<多数>という事を一つの<意識>として捉える方法論は今世紀に特徴的なもので、政治と経済の形態に由来するそれは<意識>の見かけ上の形態を変えただけでなく、思考そのものを変えかねないほどの説得力を内在させていた。というのもマジョリティとかマイノリティとかは単なる結果でしかないが、<分類>があまりにも有効であると<結果>から思考し始めるようになるものだから。
我々は随分と長いこと、形からその内実を思考してきたが、形そのものを思考する事はなかった。極めて単純に言えば我々はあらゆる具象を象徴として捉えたのである。それは肉体が具象に結び付くのと同様に精神(心)が象徴と結び付いていたからである。
 形にはかつて物としての存在感があった。それがいつしか形には形しかないと言われ始めた。宇波彰が説くようにハイデッガーに代表される実存主義が、今やボードリヤール記号論の世界に転換されていく(*1)という認識は、記号論が上手に今日的現象を説明するので、現在広く信じられている(ように思う)。
 アンケートの持つ今一つの特徴は選択性である。
 思考とはもともとアナログ的なものであるが、アンケートが要求するのはそのデジタル化である。aとbとの選択肢の間には四捨五入の手続きしか残されていず、0と1との間の無辺の端数こそ思考の個性を示すものであるが、今あらゆる意味において思考のアンケート化が行われている(*2)。不透明な時代だと信じられているゆえからの明瞭性の要求なのだろうか(もちろん明瞭性が悪いと言っているのではない)。否、思考が通過する媒体のためであると思えてならない。テレビやラジオはもとより活字媒体でさえ思考を記述するのに適さない環境になりつつある。
 真に個性的な思考はいくつかの分派を生むが、それは一つの思考が核になり連鎖的に別の思考を生むからである。しかしながら本質的に<消費>の思想は生産者と消費者を峻別するためにかかる意味の再生産を予定しない。ゆえに製品はパーツではなく常に完成品でなければならないのである。アンケートは<思考>を完成品の集合体として再編する。組み合わせに創意はあるが、つまるところ展望がない。

 *1 『物としての物をみるハイデッガー、そして使用性を持つ道具としての物を見るハイデッガーと、使用価値以外の価値を持つ、記号としての物の消費を考えようとするボードリヤール、このふたりの"物"概念の差こそは、二十世紀における思考の軸そのものの転換を示すものだと私は考える。……略……簡単に言えば、"物から記号へ"という転換を、私はハイデッガーからボードリヤールへという問題設定のなかに読み取ろうとするのである。』(「ハイデッカーからボードリヤールへ」宇波彰現代思想七九年九月臨時増刊)
 *2  アンケートの持ついま一つの特徴は、当然ではあるが予め問題設定がなされていることと、選択肢があるとはいえ解答が用意されている事である。そして問いに答える形式として順番にOX式に解答する事でその者の"思考"の在り所が分かるわけである。
 同一の、特に外国の著名な学者や作家の著作物が、この国において多数の著述家から"引用"される時、僕は何となくアンケート的効果を感じる。そして"引用"には、意識されないアンケートの作成能力を覚える。