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六、『舞姫』とは
 『舞姫』とは一体、何であろうか。すでに述べてきたように、『舞姫』のテーマが「恋愛か功名か」というところにないことはわかって頂けたと思う。
 「まことの我」は、エリート官吏の豊太郎をエリスに出逢わせるための工夫である。故にエリスに出逢った後には、「まことの我」は顕れないのも当然である。したがって、「まことの我」を近代的自我と言い換えてその覚醒と挫折という見解も当てはまらない。
 人には、ある時は真実だと思っていても、後によく考えてみれば偽であることがしばしばある。
 豊太郎にとってエリスはそのような存在だったのだろう。最初はエリスのことを愛していると思い込んだ。しかし、それは彼女の境遇に同情したり、自分が免官・免職になり、かつ母の死がほぼ同時に起こった事で、エリスと恍惚の間に交わってしまい、エリスの処女性を奪う事になった。その責任も感じた事だろう。しかし、一番問題なのは、エリスは豊太郎を心の底から愛していたが、豊太郎はエリスを真から愛していなかったことに尽きる。
 舞姫エリスは、そんな豊太郎に翻弄されたのである。
 そして翻弄した豊太郎は、その責任を自己のものとして完全消化できずに、他者転嫁を図る。確かにエリスを、直接的に精神的に殺したのは相澤である。しかし、その原因を作ったのは豊太郎であるが、ついにそこには至らない。豊太郎の手記が「嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。」で終わっているのは、そのようにして自己を守らなければ生きていけない、豊太郎の心の弱さをよく表している。

七.「舞姫論争」とは
 「舞姫論争」自体は、最初はそれなりの論説を交わしているが、次第に些末なことまで論じ、まるで子どもの喧嘩のような言説を振りかざしているのは、これまで見てきたとおりである。
 にもかかわらず、石橋忍月の名と「舞姫論争」が、いつまでも過去のものとならないのは、「恋愛か功名か」というわかりやすいテーゼと、忍月が指摘している、豊太郎が取るべきなのは断然恋愛であって、功名ではないという倫理的な発想がわかりやすかったからであるとしか、私には思えない。確かに倫理的に考えるなら、豊太郎の態様は読者を満足させ得るものではないだろう。そして、その部分だけが残されていまだに、「舞姫論争」は議論されている。
 もはや、過去の議論となった「舞姫論争」がいまだに取り上げられるのは、もはや止めにしてもらいたいくらいである。
 それにしても、「舞姫論争」は、『舞姫』が読まれ続ける限り、形を変えて続けられていくだろう。『舞姫』には読者の琴線に触れる倫理的問題が内在しているからである。そして、その責めを相澤謙吉に負わせるかのような終わり方をしているが、読者にとっては納得いくものではないだろう。その不条理ともいえる結末が、この物語を支えているのである。おおよそ、書き手にとってもこの結末の不条理こそが、その時代(制度内)を生きるものの受け入れなければならないものであり、受け入れた以上、その恨みは決して消えないのである。          了

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舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について
五、偽りの自己とその結果がもたらしたもの
 豊太郎の手記では、「まことの我」が顕れた後に「いままでの我」を「余が幼き頃より長者の敎を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ」と記している。「我」の姿について「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」と書いている。この事は、「まことの我」が顕れた後でも同じだったのではなかったか。
 エリスの家に寄寓するようになって、「朝の咖啡果つれば、彼は溫習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を讀み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截(き)り開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て來る一盞(ひとつき)の咖啡の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに插みたるを、幾種となく掛け聨(つら)ねたるかたへの壁に、いく度となく往來する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、溫習に往きたる日には返り路によぎりて、余と俱に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし」と記された箇所を読む時、豊太郎が精力的にベルリン通信員として働いているかのように読める。しかし、一方、エリスとの約束で、豊太郎は免官・免職になった事をエリスの母に隠している。したがって、まだ官吏であるふりを続けるには、「朝の咖啡果つれば」豊太郎はエリスの家を出ていかなければならない。オフィスを持たない豊太郎にとってオフィス代わりになったのが、「キヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所」だったのである。その中で、「定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ」て仕事をしていたのである。このあたりの描写は豊太郎のプライドの裏返しのように読める。そんな中で、楽しかったのは、「一時近くなるほどに、溫習に往きたる日には返り路によぎりて、余と俱に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女」と家に帰る事だったのである。
 そんな生活は「明治廿一年の冬は來にけり」(旧暦の十月一日、新暦では十一月四の日曜日である)によって、劇的に変化する。その劇的に変化する前に、「我學問は荒みぬ」でリフレインされる前二段落によって、それまでの自分のベルリン通信員の仕事ぶりを総括したのである。
 この「明治廿一年の冬」が来た日に、「エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻(つはり)といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし」と自分の前途を心配するのである。そんな折に、天方伯が豊太郎に会いたいと言うから急いで来てくれという相澤からの手紙が届く。
 ホテル・カイゼルホオフに着いた豊太郎は、大臣からは急ぎ翻訳してもらいたいとドイツ語の文書を渡され、相澤とは、ホテルの食堂で昼食を一緒にとる。その際に、豊太郎は相澤から「彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと」言われる。豊太郎は「貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑(しばら)く友の言に從ひて、この情綠を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵(かうてい)すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり」と手記には書いている。豊太郎の中では「貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」であって受動的な生活態度が明らかにされる。そして、「姑(しばら)く友の言に從ひて、この情綠を斷たんと」約束してしまうのである。もし、本当にエリスを愛しているのなら、これは背信的行為である。だからこそ、逆にエリスを真から愛していない事が明らかになるのである。
 わかりにくいのは、この後の「余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵(かうてい)すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり」という言葉である。これは船上からの考察の部分であるが、「友に對して否とはえ對へぬが常なり」と記しいるので、これは物語時間内においても「いままでの我」が「我」の主体であった事がわかる。それにしても「友に對して否とはえ對へぬが常なり」とは、あまりにも主体性がなくはないだろうか。「友」を一般名詞と考えるからわかりにくいのであって、この「友」に相澤謙吉を入れれば、「相澤に對して否とはえ對へぬが常なり」となり、わかりやすくなるのではないか。
 そもそも「明治廿一年の冬は來にけり」を境にして「まことの我」はどこにいったのであろうか。以降は、豊太郎は「まことの我」が持つ主体性を失っていく。
 天方伯一行が泊まっているホテル・カイゼルホオフに通うこと、一月ばかりした時に、豊太郎は大臣から、明朝、ロシアに向けて出発するが、ついてくるか、と問われる。豊太郎は「いかで命に從はざらむ」と答える。この時も不思議な記述が現れる。「余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて賴む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し難きに心づきても、強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」である。特に、「強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」は不思議な言葉である。今まで天方伯にいろいろと命じられてきたのならわかるが、ここは初めて命じられた事である。「耐忍してこれを實行すること屢々なり」にはあたらないだろう。とすれば、これまでの同様な事を振り返っての言葉であるという事になる。ここで、敢えて振り返ってこの言葉を書くのは、先行的に事柄を説明したいがためである。重要なのは「余はおのれが信じて賴む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し難きに心づきても、強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」の箇所である。
これは、後に、ロシア・ペエテルブルクでの労を天方伯からねぎらわれ、その時「われと共に東にかへる心なきか」と問われた時、豊太郎は「承はり侍り」と答えたときの方がよく当てはまる。
 なお、その直前に「若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり」と記しているので、今までのエリスとの生活は、豊太郎の本心からすれば満足のいくものではなかったことが明らかになる。ということは、エリスとの生活は本心を自ら欺いて、したがって、エリスやエリスの母を欺いて暮らしてきたことになる。
 豊太郎は「承はり侍り」と答えたものの、エリスがいる。ここに来て「その爲し難きに心づ」いたものの、どうすべきかは考えがない。「黑がねの額(ぬか)はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき」と記しているのは当然のことである。
 豊太郎は、結局エリスに言う言葉を失ったまま、家に帰り、そのまま人事不省に陥る。
 そして豊太郎の様子を伺いにエリスの家に来た相澤は、豊太郎が隠していた事柄をすべて知る事になる。相澤の事だから、豊太郎を説得したように、エリスに真摯に向き合い、説得すればわかってもらえると考えたのだろう。しかし、結果はエリスをパラノイアにしてしまう。
 エリスが倒れる直前に叫んだ「「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」」という言葉は、「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」の人生を送ってきた豊太郎に投げかけられた言葉として相応しく感じる。

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四、「人知らぬ恨」と「まことの我」と「一点の彼を憎む心」とは同じもの
 冒頭の独白に「人知らぬ恨」が出てくる。その正体がわからなくて、豊太郎は悩まされている。しかし、その正体を知ろうとして、手記を書き始めるのである。
 やがてベルリンの自由の大学の風に吹かれて、奥底に潜んでいた(ということは今までも存在していたということである)「まことの我」が顕れ、「いままでの我」は「たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりし」だったと言い、その結果が、「いままでの我」ならぬ我を責めるようになったと語る。
 しかし、相澤に会った時も天方伯にロシア行きを告げられた時も、そして最後に天方伯から帰国しないか、と言われそれを承諾した際も、「まことの我」は前面には出なかった。
 天方伯に帰国を承諾した時点で、「まことの我」は役割を終えていたのである。
 しかし、エリスがいる。エリスに対しては豊太郎は顔向けができない。自分の事を罪人だとも言って、冬のベルリンを彷徨する。結果的にそれが豊太郎を人事不省に陥らせる。
 その間に、相澤が豊太郎のもとを訪れ、全てを知る。その上で、エリスに本当の事を告げる。相澤から聞かされた真実に、豊太郎を罵りながら、エリスは倒れる。そして、医に見せたところ「パラノイア」という不治の精神病に罹っているという。
 人事不省から回復した豊太郎は、エリスを精神的に殺したのは、相澤であると思うようになる。
 ベルリンを出発する時、すでに「人知らぬ恨」が生じているが、この正体は「まことの我」であろうと思う。なぜならば、その後「まことの我」は顕れないからである。豊太郎が生まれた時から、ベルリンに留学し、三年ばかり過ぎるまでの、全ての履歴の過程を否定した精神は、どこに消えたのだろう。「まことの我」にかわり「いままでの我」が「我」を取り仕切る。行き場を失った「まことの我」はまた奥底に潜むのであろうか。そうではあるまい。一度、表面化した「まことの我」は実体をもった別のものに変化したのである。それが「人知らぬ恨」である。そして、手記においては、エリスを排除した者として相澤を憎むことになる。この「一点の彼を憎む心」と「人知らぬ恨」は同じものである。
 同心円を考えてみればわかることである。手記を書き出す前の独白の部分を大きな円として、その中心点を「人知らぬ恨」とすれば、その中心点を軸とした少し小さな円が、豊太郎の手記である。豊太郎の手記の中で中心点になっているのは、「一点の彼を憎む心」である。同じ中心点が、より大きな円である独白の中では「人知らぬ恨」と名付けられ、より小さな円である手記においては「一点の彼を憎む心」になるのは当然のことである。なお、わかりやすいように、中心点としたが、中心でなくても、同心円の中の同じ位置にある一点であっても、同じことである。

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第六章 「舞姫」のテーマについて

一、恋愛か功名か
 忍月が定立した「恋愛か功名か」というテーゼは、本当は成立していない。豊太郎は真の愛を知らないのである。したがって、「恋愛」がなくなれば「功名」しか残らなくなる。至極簡単な道理であるが、『舞姫』においては仮初めにも「恋愛」らしきものがあり、「功名」を取るのは容易くない。
 何にしても、エリスの存在が大きい。このエリスから離れられることができてこそ、「功名」を取ることができるのである。
 『舞姫』全編はその事に費やされていると言っても過言ではない。

二、豊太郎の履歴の必要性
 「まことの我」を体験した後の豊太郎は、自分がどう生まれ育ってきたのかを確認する必要がある。なぜなら、「まことの我」は、その部分を自らの意志で行ったのではなく、人の言われるように行動し、その結果が藩校にいた時も予備校にいた時も、大学法学部を卒業する時も常にトップの成績だったことにつながる。それから、某省に入り、故郷から母を東京に呼び寄せて、楽しい時を三年ばかり過ごす。その間、官長の覚えめでたく、念願だった洋行の命も下り、ベルリンにやってくる。
 この過去の自分の履歴の部分は、後に「まことの我」によって、すべて自らの意志でしたことではないと否定される(する)。その否定されるべき履歴であるから、豊太郎は確認する必要があったのである。こうした過去を否定することで、「まことの我」は「我」の中で出発したのである。

三、エリスとは
 エリスは物語的には、豊太郎の出世を阻む者として現れる。エリスとの出会いが、免官・免職に追い込まれる事になり、エリスと付き合っていることが、豊太郎の再任官を阻む原因になるのである。
 一方、豊太郎が本当にエリスを愛しているならば、貧しくとも某新聞社のベルリン通信員であり続けられるのであればその生活を大切にすればいいのであるが、豊太郎が捨てがたく思っているのは、「エリスが愛」であり、エリスに愛されていることなのである。「まことの我」が顕れてからもこの関係は変わることがなかった。だから、エリスの妊娠を知った時、本当だったらどうしようなどと考えるのである。
 エリスは一方的に豊太郎を愛する人になり、豊太郎は愛される側に立つ。それが一年と少しの生活の間に恒常化し、豊太郎から真の意味でエリスを愛するという心を奪っていったとも言える。
 それだから、明治二十一年の冬、ホテル・カイゼルホオフで相澤謙吉と会い、相澤からエリスとの情縁を断てと言われた時、躊躇なくエリスと別れると約束ができたのも、真にエリスを愛していなかったからであり、ここにおいては「まことの我」は姿を消し、「いままでの我」が事を仕切る。
 この時から、エリスは豊太郎にとって、ある意味で邪魔者になっていたのである。天方伯に取り入り、その信用を得て帰国することになった時、最大の障壁はエリスだったのである。
 天方伯の帰国の命を承諾した後においては、豊太郎とエリスとをそのまま会わせる事ができない。だから、豊太郎を人事不省にし、その間に諸事情を相澤からエリスに伝えることで、エリスがパラノイアになる。鷗外の論理では、「処女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委托し、存活の資を残して去る心とは、何故に両立すべからざるか」ということになり、豊太郎の子を妊娠しているエリスをベルリンに置き去りにし、その世話をエリスの母に託すということで解決できると考えている。
 ここは読者の考え方次第であろう。豊太郎のこの行為を非難することは、読者ならではの特権なのだから。

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第五章 省筆について
 鷗外は豊太郎が手記を書くにあたり、『舞姫』において「いで、その槪略を文に綴りて見む」と意気込んで書いたものである。「槪略」と書いているのだから、無駄な部分は極力削り取られているはずである。
 しかし、これに対して忍月は堂々と批判をしてきた。

一、『舞姫』評
 忍月にしてみれば、この物語は「恋愛か功名か」に主眼があるので、豊太郎の履歴などは不要に思えたのである。
 『舞姫』評では、次のように言う。「次ぎに本篇二頁下段「余は幼なきころより厳重なる家庭の教へを受け云々」より以下六十余行は殆んど無用の文字なり、何となれば本篇の主眼は太田其人の履歴に在らずして恋愛と功名との相関に在ればなり。彼が生立の状況洋行の源因就学の有様を描きたりとて本篇に幾千の光彩を増すや本篇に幾千の関係あるや予は毫も之が必要を見ざるなり」と。

二、「気取半之丞に与ふる書」による反論
 しかし、これには鷗外も憤慨した。「気取半之丞に与ふる書」では「足下の太田生が性質を説き玉ふ段に至りては、則ち更にこれより甚しきものあり。足下の云く。本篇二頁下段、余は幼なきころより厳重なる家庭の教を受け云々より以下六十余行は殆無用の文字なり。何如といふに本篇の主眼は太田其人の履歴にあらずして、恋愛と功名との相関にあればなり。彼が生立の状況、洋行の原因、就学の有様を描きたりとて、本篇に幾千の光彩を増すか。本篇に幾千の関係あるか。予は毫も之が必要を見ざるなりと。僕は已に舞姫の光彩ありや否やをだに知らず、これを増すべき字句のありやなしや、能く知るかぎりにあらねど、此六十余行を分析すれば、一として太田生が在欧中の命運に関係せざるものなし。先づ太田が出身、学位を受くること、官命を帯びて西に航すること、叙して十一行中に在り。これなくば誰か太田の何人なるを知らむ。次の三行には航西の途を叙したり。こゝまでにて太田が母の事、明に見ゆ。これなくば誰か太田が母の死を聞きて伯林に留まる心を解せむ。伯林の境を叙すること十九行。此熱閙の状富麗の景なくば、後の寂寥荒漠の天地は遂に伯林の本色とや思はれむ。これより下二十九行は太田が公命を帯びたる性質を略叙して、忽ち又これを撤去したり。彼が政治家法律家を以て自ら居らずといふ処は、其「ロマンチック」的生活に傾く張本ならずや。太田生の履歴が一篇の主眼にあらずといふも、太田の履歴なくば誰か彼が遭遇を追尋することを楽まむ。さるを毫も其必要を見ずといふ」と書いた後で、「其妄三つ」と加えている。
 豊太郎の履歴は、鷗外が相当心をくだいたところであろう。鷗外自身は医学部だが、豊太郎は法学部に入学させている。これは通常の官僚としての道を歩ませるのに、適していると考えたからだろう。豊太郎の優秀さを強調することで、官長の期待と「まことの我」が顕れてからの落胆の落差が大きいのとは無関係ではなかろう。
 忍月が無用とした部分は、『舞姫』にとって欠く事ができない部分であり、『舞姫』のテーマにも深く関わっている。忍月は、物語の面白さを求めすぎて、『舞姫』の真の姿を見誤ったとしか言いようがない。

三、そもそも豊太郎の履歴の必要性について
 そもそもこの手記は豊太郎が自分のために書いているものである。そうであれば、論理的には、自分の履歴は当然わかっているはずだから書き起こす必要性があったのか疑わしい。しかし、前節でも明らかなように「これなくば誰か太田の何人なるを知らむ。次の三行には航西の途を叙したり。こゝまでにて太田が母の事、明に見ゆ。これなくば誰か太田が母の死を聞きて伯林に留まる心を解せむ」というように、自分のために書いている手記だという前提を忘れているか、反故にしている。自らの解説によって、せっかくの前提やテーマを損ねかねない発言をすることは残念だが、しかし、次の章で明らかにするが、自分のために書いている手記だからこそ、この履歴が必要なのである。『舞姫』という小説はそのように書かれているのである。『舞姫』を書いた時の書き手の心理を、舞姫論争の中で見失っていることは、真に惜しいことである。

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第四章 陪賓及びエリスについて
 忍月は『舞姫』評において、エリスについてはかなりがっかりしたと書いている。
 「予は客冬「舞姫」と云へる表題を新聞の広告に見て思へらく是れ引手数多の女俳優(例之ばもしや草紙の雲野通路の如き)ならんと、然るに今本篇に接すれば其所謂舞姫は文盲痴騃にして識見なき志操なき一婦人にてありし。是れ失望の第一なり(失望するは失望者の無理か?)。」
【意訳】『私は去年の冬に「舞姫」と言える表題を新聞の広告に見て思ったものだ。これ引く手数(あま)多(た)の女優(例えば『もしや草紙』の雲(くも)野(の)通(かよひ)路(じ)の如き)ではないかと、しかるに今本篇に接すれば、そのいわゆる舞姫は文盲痴(ち)騃(がい)にして見識なき志なき一婦人ではないか。これ失望の第一なり(失望するは失望者の無理か?)。』
 当時、流行っていた低俗な政治小説の『もしや草紙』の「雲野通路」と比べたのである。雲野通路は引く手数多の女優で、幾度か貞操の危機に瀕するが、本人はしっかりした女優で、その都度、機知ないし偶然の幸運で難を逃れている。知らぬは亭主だけである。
 『もしや草紙(増補版)』を読んでみたが、雲野通路にそれほどの魅力を感じなかったし、何よりも通俗本特有の語り口に閉口する。それに比べれば、エリスの初々しさの方が何と魅力的なことか。
 鷗外は文豪ゾラのナナの例を出して、「文盲痴騃識見なく志操なきものはナヽに若くはなし。仏蘭西の大家たるゾラはこれを取りて題としたり。而れども人其自然派の傾甚きを嫌ひて、其題号を病とせず」と反論する。
 陪賓及びエリスについては、主人公ほどの議論の深まりはない。この問題に関しては、鷗外は、敢えて議論が深まるのを避けたのかも知れない。